公開中
【読切】無色不明
私はひとり、廊下を歩いていた。
長い長い道を、ただ、ひたすらに。
「__あれ? 確か……|榎坂《えのさか》エリさん?」
「!」
突然かけられた声に、私は肩をびくっと跳ねさせたが、数秒経ってから力を抜いた。
「……その声は、えっと?」
「ああ、すみません、僕、|松本《まつもと》って言います。いま、ここで研修中でして」
研修医さん、もとい、松本さんは、ふふっと小さく微笑んだ。
「こんな時間にどうしたんですか?」
「ああ、いや、その……」
私は少し躊躇ってから、ぽつりと零す。
「……幽霊に、会いたくって」
ヒッ、と小さな悲鳴が聞こえた。
ちょっとわかりにくいけれど、声の主は、恐らく松本さんだ。
「あの、……?」
「あっ! す、すみません急に黙っちゃって! ちょっとあの、はは、いや、別に……ゆ、幽霊ですかあ……」
カタカタカタと、小刻みに音が聞こえてくる。どうやら、怖がっているらしい。
「そんなに怖がらなくても……大丈夫ですよ。禁忌の魔術とかには手を出しませんから。ただ、ふらっと散歩しているだけです」
にこ、と微笑んでみせると、松本さんは少し安心したように「あ、そ、そうですか……? なら、いいんですけど」と呟いた。
「すみません、ビビリで……まあ、散歩は健康にいいですからね。けれど、転ばないよう、細心の注意を払ってくださいよ」
「わかってます。ほら、ちゃんと手すりがありますし、大丈夫ですから」
「そうですか。では__あっ、そうだ」
松本さんは、何やらゴソゴソとしたあと、
「これ、よければ。ペーパーインセンスって、言うんですかね? 緊張してるときとか、この匂い嗅ぐとちょっとリラックスできて。オススメですよ」
ふわりと、いい香りが漂ってきた。
「……ありがとう、ございます。大事にします」
おずおずと手を差し出すと、松本さんはそれを渡してくれた。手に小さな紙切れが載る。
「では、僕はまだ仕事がありますから。また、いつか。榎坂さん、散歩もいいですけれど、ちゃんと睡眠も取ってくださいね」
「わかりました。それじゃあ」
私はUターンし、先程までとは反対の手で手すりを掴み、また、歩き出した。
ポケットには、大切にしまわれたペーパーインセンスがほのかにいい香りをさせている。
---
後日。私は、ご飯の準備をしてくれている看護師さんに、思い切って声をかけてみた。
「あの、松本さんって、もういなくなっちゃったんですか? 最近、見かけないから……」
「松本? ……誰かしら?」
「あれ……? ええと、研修医の方です」
「あぁ、研修医さんなら、もうとっくにいなくなってるわよ」
「とっくにって……」
「一ヶ月くらい前だったかしらね。それが、どうかした?」
「いえ……」
私は曖昧な相槌で話を終わらせようとしたのだが、看護師さんは話を続けた。
「顔は覚えている? って、訊こうと思ったけれど……わからないのよね」
少し切なげに、けれど軽い温度で、そう言った。
私は苦笑する。
私は、盲目だった。
つまり、目が見えないのだ。
だから昼に出歩くのは危険なため、人の少ない夜に、特別に散歩をさせてもらっている。
……よく考えれば、どうして、関わりのない研修医である彼が、私が盲目だということを知っていたのか?
いや、知っていたとは限らないけれど……でも、嗅覚で楽しめるものをくれた。わざわざ。
もしかすると彼こそ、幽霊だったのかもしれない。
けれど、あのとき、正体不明の彼からもらったペーパーインセンスは、今日もまだ、ポケットの中で香っていた。