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第4話:小さな指先と、未完成の地図
延命治療。その言葉の響きとは裏腹に、|新《あらた》を待っていたのは、吐き気と倦怠感に苛まれる、削り取られるような日常だった。
「……はぁ、はぁ……っ」
トイレの洗面台に縋り付き、胃液を吐き出す。
鏡に映る自分は、幽霊のようだ。一年前、|永莉《えり》が通り魔に遭ったあの日の夜、自分も一緒に死んでいれば、こんな惨めな思いをせずに済んだのに。
ふらつく足取りで廊下へ出た時、パジャマの裾を、誰かが弱々しく引いた。
「ねえ、おにいちゃん。だいじょうぶ?」
足元を見ると、点滴スタンドを相棒のように連れた、小さな女の子が立っていた。
年の頃は五歳か六歳。病気のせいか髪は薄く、帽子を深く被っている。けれど、その瞳だけは、新よりもずっと強く、澄んだ光を宿していた。
「……ああ。大丈夫だ。ごめん、びっくりさせたな」
「おにいちゃん、おなかがいたいの? わたしも、たまにいたくなるよ。でも、がまんしたら、あしたのアニメみれるんだ」
明日のアニメ。
そのあまりにささやかで、切実な「未来」の言葉に、新は言葉を失った。
女の子は、新の手元にある一冊のノートに目を留めた。
新が肌身離さず持っている、永莉との『未来のノート』だ。
「それ、なあに? 絵本?」
「……いや、これは……。ただの、落書きだよ」
「みせて! わたし、絵本だいすきなの」
新は迷ったが、床に座り込みそうになった自分を支えてくれた彼女の、無邪気な願いを断れなかった。
震える手で、ノートを開く。
そこには、永莉と書いた「子供の名前」の候補や、将来行きたいキャンプ場のスケッチが並んでいた。
「わあ……! このおうち、かわいい。ここには、だれが住むの?」
「……僕の、大切な人と。いつか、住もうねって、約束した場所だ」
「じゃあ、このなまえは? 『|新太《あらた》』くん……? おにいちゃんと同じなまえだね!」
それは、もし男の子が生まれたら付けようと、永莉が笑いながら書いた名前だった。
「……ああ。僕の子供に、付けるはずだった名前だよ。でも、もうその子は、生まれてこないんだ」
新の声が、わずかに震える。
すると、女の子は小さな、温かな手で、新の大きな手を包み込んだ。
「……ねえ、おにいちゃん。その子、いないの? でも、なまえがあるなら、ここにいるよ」
彼女は、新の胸のあたりをトントンと叩いた。
「わたしのなまえは、|陽葵《ひまり》。おひさまみたいに笑えるようにって、パパがつけてくれたの。おにいちゃんがそのなまえを呼ぶとき、その子は、おにいちゃんのなかにいるんだよ」
陽葵と名乗った少女は、看護師に呼ばれると「またね!」と元気に手を振って去っていった。
静まり返った廊下で、新は一人、ノートを見つめ直した。
一年前から、自分はこのノートを「失われた未来の墓標」だと思っていた。
けれど、陽葵にとっては、それは「今、ここに生きている証」に見えたのだろうか。
(僕が、その名前を呼ぶとき……)
新は初めて、自分の病室へ戻る足取りを、少しだけ踏みしめた。
永莉が愛した「今」を、自分はただ呪っていた。
けれど、この小さな少女は、いつ終わるかわからない「今」を、明日放送されるアニメのために必死に繋ぎ止めている。
新の止まっていた時間が、微かな音を立てて、一秒だけ進んだ。
🔚