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【1】神に選ばれし夜騎士は、桜の花を吹く
夜の帳が下り、桜の花びらが月光に舞う。都の外れ、古びた石塔の頂に立つ青年は、風に髪を揺らしていた。名はユウリ。左目に宿る赤い光は、まるで血の涙を湛えた宝石のようだった。彼はたった一人の魔法使い――神に選ばれし「夜騎士」と呼ばれる存在。
ユウリの右目は深い黒で、夜そのものを映していた。だが左目だけは、禁忌の魔法を宿す証。幼い頃、村を焼き尽くした炎の中で、彼はその目を与えられた。神の声が囁いた。「お前は夜を守る者。桜の花を吹く時、世界の均衡は保たれる」。その言葉は呪いか、使命か。ユウリにはまだ分からない。
今宵、都の地下で異変が起きていた。闇の魔物が蠢き、人々の魂を喰らおうとしていた。ユウリは石塔から飛び降り、風を切り裂くように街へ向かった。黒のマントが翻り、左目の赤が一瞬、夜を染めた。
都の中心、桜並木が続く神社の境内。そこに魔物の気配が濃く漂う。ユウリは手を翳し、指先から淡い光を放った。光は桜の木々を揺らし、花びらを宙に巻き上げた。まるで春の嵐が夜に蘇ったかのよう。
「現れなさい」とユウリが呟くと、地面が割れ、黒い霧が這い出てきた。霧は人の形を取り、赤い牙を剥く。魔物は嗤った。「夜騎士よ、なぜ神に背かぬ? その目は自由を欲しているのに!」
ユウリは静かに微笑んだ。「自由? 俺の目は夜を見るためだ。桜を吹くためだ。お前のような穢れを、消し去るためだ」
彼は左手を掲げ、左目が燃えるように輝いた。桜の花びらが一斉に渦を巻き、魔物を包み込む。花びらはまるで刃のように鋭く、霧を切り裂いた。魔物の叫びが夜に響き、やがて静寂が戻る。ユウリは息を吐き、額に浮かんだ汗を拭った。
桜の木の下で、彼は膝をついた。左目の赤が一瞬、弱々しく揺れた。「神よ」と彼は囁く。「この目が呪いなら、なぜ俺に桜を見せる? なぜ、美しいものを守らせようとする?」
答えはない。あるのは、夜風に舞う桜の花びらだけ。
翌朝、都の人々は不思議な光景を見た。神社の桜が一夜にして満開になり、花びらがまるで雪のように降り注いでいた。だが、夜騎士の姿はどこにもなかった。ユウリは再び旅に出ていた。次の闇を討つため、次の桜を吹くため。
都を後にしたユウリは、森の奥深くを歩いていた。夜の闇は彼の盟友であり、左目の赤い光は道を照らす唯一の灯火だった。満月が空に浮かび、木々の隙間から漏れる光が地面にまだらな影を落とす。ユウリの手には、古びた革の鞄。そこには神から与えられた「桜の書」――彼の使命を記す禁断の巻物が入っていた。
だが、今夜の森は静かすぎた。鳥の声も、獣の足音も聞こえない。ユウリは立ち止まり、左目を細めた。「またか」と呟く。空気が重くなり、地面から冷たい霧が這い上がってくる。霧の中から、甲高い笑い声が響いた。
「夜騎士、ユウリ! ついに会えた!」声の主は、霧を裂いて現れた少女だった。年の頃は十五、六歳。白銀の髪を三つ編みにし、青い瞳が星のように輝く。彼女の背には、蝶の羽のような光の翼が揺れていた。「私はリナ。闇の使徒を追う者だよ。あなたと同じさ!」
ユウリは眉をひそめた。「同じ? 俺は誰とも組まない。一人でいい」
リナはくすくす笑い、ユウリに一歩近づいた。「ふーん、冷たいね。でもね、今回の敵はあなた一人じゃ無理だよ。だって、そいつは『桜の影』を操るんだから!」
その言葉に、ユウリの左目が一瞬強く光った。「桜の影だと?」彼は知っていた。桜の書に記された禁忌の存在――夜騎士の力を模倣し、桜の美を穢す魔物。ユウリはリナを睨んだ。「お前、どこまで知ってる?」
リナは肩をすくめ、指で宙に光の弧を描いた。「全部、とは言わないけど……神の声を聞いたこと、あるよね? 私も聞いた。あなたを助けろってさ!」
ユウリは黙った。神の声。それは彼を縛る鎖であり、導く星でもあった。だが、信じていいのか? 彼はリナの青い瞳を見つめ、嘘の気配を探った。だが、そこにはただ純粋な光しかなかった。
「いいだろう」とユウリは言った。「だが、俺の邪魔をするなら、見ず知らずでも容赦しない」
リナはにっこり笑い、「約束!」と手を差し出した。ユウリは無視して歩き出したが、リナは軽い足取りでついてくる。
二人は森の奥、朽ちた神殿にたどり着いた。そこはかつて桜の精霊が祀られていた場所だったが、今は黒い茨に覆われ、桜の木は全て枯れていた。ユウリは神殿の扉に手を触れ、左目で闇を見透かした。「ここだ。桜の影が潜んでいる」
リナが呟く。「気をつけて。こいつ、人の心を操るよ。特に、孤独な心を……」
その瞬間、地面が揺れ、黒い桜の花びらが舞い上がった。花びらは鋭い刃と化し、ユウリとリナを襲う。ユウリはマントを翻し、左手を掲げた。左目の赤が燃え、桜の書から光が溢れる。彼の周囲に本物の桜の花びらが渦を巻き、黒い刃を打ち消した。
「リナ、援護を!」ユウリが叫ぶ。リナは頷き、翼を広げて宙に舞う。彼女の手から放たれた光の矢が、黒い花びらを貫いた。
だが、闇の中から声が響く。「夜騎士よ、なぜ抗う? お前は孤独だ。神に縛られ、誰とも繋がれぬ。お前の目は呪いそのものだ!」
声に呼応するように、ユウリの左目が激しく疼いた。視界が歪み、幼い頃の炎が蘇る。村が燃え、家族が消え、彼だけが残ったあの夜。ユウリは膝をつき、息を荒げた。
「ユウリ、目を閉じて!」リナの声が響く。彼女はユウリの前に立ち、光の盾を張った。「あんたは一人じゃない! 私がいる!」
その言葉が、ユウリの心に小さな灯をともした。彼は立ち上がり、左目を押さえた。「……感謝する、リナ。だが、これは俺の戦いだ」
ユウリは桜の書を開き、禁忌の呪文を唱えた。左目から赤い光が溢れ、神殿全体を包む。黒い桜は砕け、桜の影が姿を現した。それはユウリ自身の影――彼の恐怖と孤独を映した姿だった。
「お前は俺の一部だ」とユウリは言った。「だが、俺は夜騎士だ。桜を吹く者だ!」彼は左手を振り下ろし、桜の嵐を解き放った。影は悲鳴を上げ、夜に溶けた。
神殿は静寂を取り戻し、枯れた桜の木に小さな芽が生まれた。リナはユウリの肩を叩き、「やったね!」と笑った。ユウリは小さく頷き、左目の疼きが収まるのを感じた。
「リナ」と彼は言った。「お前、神の声を本当に聞いたのか?」
リナはいたずらっぽく笑い、「さあ? でも、あんたを放っておけなかったのは本当だよ」
ユウリは苦笑し、夜の森を後にした。リナが隣を歩く。桜の書はまだ重く、左目は赤く輝く。だが、今夜、ユウリの心は少しだけ軽かった。
次の桜が咲くまで、彼の旅は続く。