公開中
メルト・スイート・ホワイト
寒さは和らぎ、陽気がやってき始めた3月の上旬。
私は棚の前で悶々と悩んでいた。
「あーもんど、ぷーどる…?アーモンドの犬?どういう意味なの?」
「犬な訳ないでしょ!アーモンドを砕いて粉末にしたものをアーモンドプードルって言うのよ。あんたは全くもう…。」
お姉ちゃんから睨まれる。
「だって…私、今までお菓子作りとかやったことないんだよ!?しょうがないじゃん。」
涙目になりながら言い返す。これだからお姉ちゃんは!
さて、なぜ私は突然お菓子作りをしようと思ったのか?
時は2月14日に遡る。
「今日も寒いなー。」
のんびりと坂道を登りつつ、私はてくてくと歩く。
追い越していく女子たちは心なしかウキウキしている。なぜだろうか。
今日は確か1時間目から体育だ。体育大好きガールズなのか?いやでもみんながみんなそういう女子なはずはなく…私、体育どっちかといえば嫌いだし。
|瑠花《るか》ちゃんなら、好きなのかなぁ。
|佐倉瑠花《さくら るか》。天真爛漫でとっても可愛らしい女の子。私の想い人。
彼女は運動は苦手だが体育を心からエンジョイしていて、スポーツマンシップに溢れていて。気づけば賑やかで台風のような彼女を目で追っていた。
そこからアクシデントや私のアプローチによってそこそこ仲のいい友達、というところまで漕ぎ着けたのだ。私にしては頑張ったと思う。
そんなことを思い出しながら下駄箱でぼうっと靴を履き替え、教室に入り、リュックを置く。
そういえば数学ドリルの提出が遅れていた。今日出しに行かなくては。
上履きでタイルを蹴って、職員室に向かう。
教室前にてキョロキョロと辺りを見渡す小さな姿が見えた。心臓が高鳴る。
「おはよう、瑠花ちゃん。」
「あっ!おはよう!あかねちゃん。」
鈴が鳴るような愛らしい声で挨拶してくれた。これで私は今日も頑張れる。
「これ、チョコレート!」
…チョコレート?なぜ今日?というか今日は何の日なのか。
バレンタインじゃん。完全に忘れていた。
「え、あ、わ、私、その…お返しとか持ってないんだけ」
「持ってなくてもいいの!わたしは、その…あかねちゃんに受け取ってもらえればそれでいいから!」
そう彼女が言った時、ちょうどチャイムが鳴ってしまった。
「…またね!」
そう言ってぱたぱたと走り去っていく。
残されたチョコレートをぎゅっと握りしめて、私はその場に立ち尽くしていた。
大失敗だ。
好きな人にチョコレート渡せなくてどうする、私。
おい、私!
「はぁぁ…。」
「そんなに深いため息ついてどうしたのよ。世界の真理でも知っちゃったの?」
窓の外を見つめて黄昏ている私に姉が声をかけた。
姉は花の女子大生。普段は一人暮らしだが今日は私の家に戻ってきたようだ。彼氏はいないがどうやらスーパー美人な彼女がいる…らしい。大先輩である。ムカつくが。
「実は……バレンタインが……その……うん。はい。」
それだけで何となく察したのか、姉はジト目でこちらを呆れたように見つめた後、深ーく、あからさまにため息をついた。
「あんたね!いくら何でもそれは良くないわよ。こういうのはこちらからどんどん攻めなきゃダメなの!」
「うぐぅ…。」
さらに落ち込む。情けも何もない。いや、私が確かに悪いのはわかる。だがこう、言葉に表せないような心の傷がつくのである。
「ホワイトデー。」
「…へ?」
突然姉が何か呟く。ほわいと…何?
「だから、ホワイトデーよ。3月14日にあるでしょう。あんた、そこまで忘れてたの?」
また呆れたような口調で訊かれる。そ、そんなことはない。たぶん。
「知ってるよ!…忘れてないよ?本当だからね?」
「怪しいわね…。まあいいわ。あんた今度期末テストあるんでしょ。それの準備とかで忙しくなるだろうからホワイトデーのお返しに賭けるわよ!」
ビシッと|指が叩きつけら《 デ コ ピ ン さ》れる。地味に痛いのだ、これが。
「パワハラ!パワハラっていけないんだよ!?」
「もとはといえばあんたがバレンタインデーを忘れるからいけないんでしょ!」
その通りである。トホホ…。
まだまだジンジンと痛む額をさすりながら自分の部屋に戻る。
「何を贈るかぐらいは考えておきなさいよね。」
「はーい。」
ベッドに座ってチョコレートの包装を剥がす。
ピンク色のセロハンでラッピングされたそれはオレンジ色の照明と相まってとても幻想的だ。封を開けたら溶けてしまうような、幸せな夢を限界まで混ぜ込んだような、甘い菓子。そんな印象だ。
思った以上に触れたそれは冷たくて、その嫋やかな曲線は口に入れるのを躊躇してしまうほど美しい。かけられた砂糖の宝石は色を飛ばし白く輝く。
「…瑠花ちゃん、お菓子作り得意だったんだ。」
舌の上でほどけて絡み合う濃厚な味。苦すぎず甘すぎずだ。
ときめく色をしたそのセロハンにマスキングテープで添えられていた手紙を読む。
「いつもありがとう!大好きだよ♡」
飾らず率直に想いを告げてくるところは彼女らしいが、これはさすがに勘違いしてしまう。心臓の鼓動がいつもより激しくなる。
素早く、しかし残りのチョコレートが崩れないように机の上に置いてベッドで足をばたつかせる。
私だけこんな思いをするなんて。瑠花ちゃん恐るべし。
枕に顔をうずめ、洗剤の花の香りを胸いっぱいに吸い込む。瑠花ちゃんの陽だまりの中のブーケのような、暖かな香りを思い出しながら。
やっぱり、あの子が好きだ。
洗濯したてのエプロンを腕に通す。
期末テストはもう終わった。成績はそれなりに頑張ったのでお菓子作りの許可も出た。姉とのショッピングで材料も買ってきた。準備は万端だ。
「粉砂糖を入れて…。」
「馬鹿!それ塩よ!」
「え!?」
見たら本当に塩だった。こんなベタな間違いを本当に私はしたのか。ちょっと心が折れそうになるが、まだまだお菓子作りは序盤なのだ。砂糖を取り出し、ボウルに入れた。
甘い香りが鼻腔をくすぐる。
続けて入れたアーモンドプードルと混ざり、不思議な色合いを作り上げている。
卵白の方も準備する。
レモン汁を入れて、ひたすら混ぜて、混ぜて、混ぜて。
砂糖を細かく分けて入れて、また混ぜて。
メレンゲと混ぜて。
ゆっくり混ぜて。
優しく混ぜて。
「出来た?」
「こんなすぐマカロンが作れるわけないでしょ。」
そう、私はマカロンを作ることにしたのだ。確か瑠花ちゃんが好きって言っていたはず。お姉ちゃんにそのことを伝えたらすごくニヤニヤしていた。なぜ?
「ほら、次はマカロナージュよ。」
「……マカロナージュ?」
無言で私の手からカード(そういえばピンク色の板みたいなものを買っていた)をひったくると泡を押しつぶすように動かし始めた。
「マカロナージュはね、生地を調整する大事な作業なの。つるつるしたマカロン独特の質感はこの作業をするから、生まれるのよ。」
はい、と手渡されたそのカードをおずおずと受け取り、ゆっくりと押しつぶしながら動かす。
マカロンに想いを、私の命の欠片を込める。
入れすぎず、溢れないように。でも一生懸命込めて。
「…うん。いいんじゃない?」
OKをもらえてつい口元が緩んでしまう。
リボン状に落ちるその生地もこころなしか艶が出ている気がした。
「さて、気合い入れて絞るわよ!」
絞り袋に先ほどの生地を入れて、絞る。
形は丁寧に整えて、泡も潰す。整えても整えてもどこか納得がいかない。
「そろそろやめておきなさい…。」
「あっ。」
気づけば時計は想定よりもずっと進んでいた。
「その気持ちは良いけど、やりすぎは何事もダメだからね!」
小さく返事をして不恰好な生地を見つめた。これはこれで愛嬌がある気がする。くすり、と笑ってガナッシュクリーム作りに移った。
小慣れた動きでクリームを作るお姉ちゃんを必死で見て、真似して、時にクリームをこぼす。
「もう焼く時間じゃん!?」
あわてて取り出したマカロンをオーブンでじっくりと焼く。ようやくひと段落ついた。
隅っこで頬杖をついて少しだけ休憩。オーブンの中、オレンジ色に輝く生地を私はしばらく見つめていた。
瑠花ちゃんは今どうしているだろうか?
喜んでくれるだろうか?
そっと目を伏せた。
朝の寒い空気が私に襲いかかる。
今日はもうホワイトデー。
姉に手伝ってもらって作った私の気持ちが、茶色い紙袋の中に入っている。
事前に食べてもらった時の感想も良し。形もそれなりに良し。
なかなか上手に出来た。はず、なのだが。
なんなのだろう。この言い表せない不安は。
薄水色の空を仰ぎながら歩いていると、突然足が何か冷たいものを踏んだようだった。ぱしゃりと冷えた雫がすねにかかる。
バランスを崩した私はそのまま倒れ込んで…。
瑠花ちゃんがいる教室の前で私は立ち尽くしていた。
水たまりの雨水と別の温かな雫で濡れた頬と、ひざと、くしゃくしゃになってより濃い色になった紙袋が全てを物語っている。
どうしよう。
せっかく作ったのに。
せっかく、せっかく想いを伝えようって、頑張ったのに。
壊れた機械のような変な声を出しながら、私はそこから立ち去ろうとした、その時。
「あれ、あかねちゃん?制服がすごく濡れて…。」
瑠花ちゃんが半分、ドアから顔を出してこちらを覗いている。
「あっ…あー、実は、転んじゃって。あの、全然、大丈夫、だ、から。」
体から力が抜ける。重力のままに落ちた紙袋は、中身をこぼした。
「あれ、これ!」
「うん。瑠花ちゃんに渡そうと思ってたんだ。マカロン。でも落として割れちゃったし…ごめんね。こんなにダサいマカロン、いらないよね…。」
綺麗にシールで飾りつけたセロハンの中で、割れた純白の想いが泣いている。
私も、あんな顔をしているだろうか?きっとそうだ。
そっとそれを瑠花ちゃんは拾い上げて、そのまとめた袋から一つ、私が作ったそれを取り出して口にひょいと入れた。
「!?」
瑠花ちゃんはふわりと笑ってこう言った。
「…うん。すっごく美味しい。ありがとう。」
ついフリーズしてしまう。何か言おうとして、でも言えなくて魚のように口をパクパクしている私に瑠花ちゃんは続きを言ってくれた。
「崩れても関係ないよ。ありがとう。」
「わたしにとっても、あかねちゃんは『大切な人』だよ!」
初恋も、今日また感じ直した恋も。
|差し出《あーん》されたその白いマカロンも。
|とろけるように《 メ ル ト 》、|甘く《スイート》、|白く《ホワイト》。
バレンタインデーやホワイトデーに贈るマカロンには「あなたは大切な人」という意味があるそうです。