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第1話:プロローグ「十秒の静寂」
「遥、今日はずっと頑張ってたでしょ。ほら、こっちおいで」
湊の低くて落ち着いた声が、リビングの柔らかな照明の中に溶けていく。
私は吸い寄せられるように、彼の隣に座った。湊は私の頭をゆっくりと撫で、そのまま自分の肩に私の頭を預けさせる。
「……うん。ちょっと疲れちゃった」
「そっか。じゃあ、とことん甘えていいよ」
大きな手のひらが、私の髪を優しく梳いていく。
湊は普段、とても落ち着いた性格だ。物事に動じず、いつも一歩引いて私を見守ってくれる。けれど二人きりになると、たまに子供のように私の膝に頭を乗せてきたりもする。そんな彼の「オン」と「オフ」の境界線を知っているのは、世界中で私だけだという特別感が、何よりも心地よかった。
「あ、コーラ切らしてたかも。ちょっと取ってくるついでに、ポテチも食べる?」
「……食べる。のり塩」
「了解。お姫様、ちょっとだけ待っててね」
湊がクスッと笑って席を立つ。ソファから彼の体温が消え、わずかに冷たい空気が入り込んだ。
キッチンの流しで氷がカランと鳴る音、テレビから流れるニュース番組の単調な声。
その音を子守唄代わりに、私は重たいまぶたを閉じた。
ほんの、数秒。
湊が戻ってくるまでの、ごくわずかな微睡のつもりだった。
「――遥さん。遥さん、しっかりしてください」
突然、冷え切った声が鼓膜を叩いた。
驚いて目を開けると、そこはリビングではなかった。
鼻を突く消毒液の匂い。無機質な白い天井。
私は、病院の廊下にある硬い椅子に座っていた。
「……え?」
自分の声が、記憶にあるよりずっと掠れていて、重い。
ふと手元を見ると、握りしめた指先には細かな皺が刻まれ、その薬指には、かつて湊と一緒に選んだはずの結婚指輪が、古びた輝きを放っていた。
「湊さんの、最後のお別れです。中へ」
看護師さんの悲しげな瞳が私を射抜く。
頭が真っ白になった。
さっきまで、彼はコーラを取りに行っていたはずだ。
のり塩のポテチを、二人で食べるはずだった。
足をもつれさせながら、私は「405号室」の扉を震える手で押し開けた。
そこには、白髪の混じった髪で、静かに目を閉じている湊が横たわっていた。
🔚