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黒板の余白
午後の春の風が、教室の窓からそっと入り込んでくる。
カーテンがふわりと舞って、陽の光が斜めに差し込んだ。
|私《茉音》はノートを開きながら、教室の前方、黒板の方を見つめていた。
今日から本格的に始まった数学の授業。
数学担当は新任教師――瀬野湊。
昨日、図書室に来たあの彼だった。
昨日はかけていなかった細縁の黒い眼鏡をかけて、袖口のボタンも閉じられている。
「|瀬野 湊《せの みなと》、数学を担当します。」
瀬野先生は無駄な話はしない。
軽い自己紹介だけで、初日から教科書の内容にすっと入っていく。
先生の声は落ち着いていて、耳に残る音だった。
数式が黒板に並んでいく。
先生の手は迷いがなく、黒板に綺麗な字で数字が連なっている。
「a²+b²=c²」
数式が淡々と続く。
ふとした瞬間、いつもどこか彼の指先に目を奪われていた。
色白で細く、骨張っているのに、どこか儚げで、書くたびに白い粉が指にふわりと絡まって纏わりつく。
一つ一つの動作が静かで美しかった。
黒板に残るのは数式だけじゃない。
その余白に、何かもっと違うものがあるような気がして。
それが何なのか、言葉にはできなかったけれど。
授業が進むにつれ、声に、動きに、視線が吸い込まれていく。
「感情って、数学みたいに、方程式で解けたら楽なのにね」
突然の言葉だった。
問題の合間、チョークを置いた湊が、少し遠くを見るように、小さい声でつぶやいた。
ざわついていた教室でこの言葉が聞こえたのは窓際最前列の私だけなのだろう。
誰も反応しないし気づいてすらいない。
意図的に呟いたわけではなくて、心の本音が溢れたような声だった。
数学の問題と同じように、感情にもひとつの正しい答えがあるなら。
迷わずそこに向かって、一直線に進めたら。
きっと今、こんなに揺れていないのに。
視線を上げるとちょうど黒板に背を向けてぼーっとこちらを向いていた。
その目が、偶然真っ直ぐに私と交わる。
先生の瞳は今日も綺麗で今にも消えそう。
一瞬、心臓が跳ねた。
けれどその目はすぐに逸れ、またチョークを掴む。
まるで、何事もなかったかのように。
それでも、私は瀬野先生の中にある、何か奥深い闇。それを、見た気がしていた。
放課後。
廊下を歩いているとふと、教室と図書室の間にある小さな掲示板が目に入った。
「文芸部員 募集中」
手書きの文字が少し傾いている。
誰が書いたのかも分からない、角がボロボロになっている少し古びたポスター。
そう言えば自分が文芸部だったことをふと思い出してついくすっと笑ってしまう。
美術部は月1、2度顔を出しているけれど、文芸部にはここ数ヶ月行った記憶がない。
どちらも去年のクラスメイトに誘われて何となく入部しただけだからやる気がないのはしょうがない。
その横を通り過ぎようとした時、遠くから、階段を下りてくる誰かの足音が聞こえた。
思わず振り向く。
瀬野先生だった。
手に持っていたファイルを胸に抱えて、ゆっくりと歩いてくる。
どうやら眼鏡と袖口のボタンは授業中だけらしい。
「黒崎さん」
初めて名前を呼ばれた。
それだけで、体温が変わる。
「……数学、好き?」
不意にそう問われて一瞬だけ戸惑った。
そして、首をかしげる。
「得意ではないです。でも、嫌いでは無いかも」
「そう」
先生はそれ以上、何も言わなかった。
でもその顔に、うっすらと笑みが浮かんだ気がした。
まるで、陽だまりの中で、そっと消えていく影みたいに。
そのまま先生は去っていった。
静かに、足音もほとんど残さずに。
◉ 瀬野 湊 / セノ ミナト
教師1年目。数学担当で文芸部の顧問。