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あの夏の青を、君とちぎって
潮騒の音は、いつだって私たちの青春のバックグラウンドノイズだった。
湿り気を帯びた生暖かい潮風が、自転車のペダルを漕ぐ足にまとわりつく。
坂道を一気に下ると、視界の先が一気に開け、西日に照らされた巨大な水塊――太平洋が姿を現す。
静岡の、これといって自慢できるものもない海沿いの町。
高校最後の夏休み、僕と瑠奈は、毎日夕方になると申し合わせたように自転車を走らせ、町の外れにある錆びついた防波堤へと向かった。
そこは、テトラポットに波がぶつかって白い飛沫を上げるだけの、大人は誰も来ない場所だ。
そこで僕らは自転車を乗り捨て、コンクリートの縁に並んで腰を下ろす。
だらりと投げ出した足を揺らしながら、ただゆっくりと沈んでいく夕日を眺める。
それが、迫り来る受験勉強のプレッシャーや、進路という名の重苦しい現実から逃げ出すための、僕たちだけの秘密の儀式だった。
「ねえ、湊」
沈黙を破ったのは瑠奈だった。潮風に吹かれて、彼女の短い黒髪が不揃いに揺れる。
夕方の光を浴びた横顔は、彫刻のように静かで、どこか遠い世界のものに見えた。
「東京の大学に行っても、私のこと、忘れちゃったりするのかな」
唐突な問いかけに、僕は心臓を不意に掴まれたような気がして、言葉を詰まらせた。
僕はこの町を出て、東京の私立大学へ進学することが決まっている。自分の限界を試したい、広い世界を見てみたいという、いかにも地方の高校生らしい憧れから選んだ道だった。
一方で、美術の才能がある瑠奈は、地元の小さな専門学校に進み、いずれはこの町のアトリエで絵を描き続ける道を選んだ。
進む道が、完全に分かれてしまう。
「忘れるわけないだろ。毎日、こんなに嫌っていうほど一緒に海を見てるんだから」
僕はあえておどけた調子で笑ってみせた。胸の奥が、ちりちりと焦げるように痛むのを隠すために。
けれど、カレンダーの数字が減っていくたびに、僕と瑠奈を繋ぐ青い時間が、寄せては返す波に少しずつ削り取られていくような焦燥感があった。
東京に行けば、もうこんな風に、隣で彼女の髪が揺れるのを眺めることもできなくなる。
「嘘つき」
瑠奈は小さく笑った。その笑顔はいつもの悪戯っぽいものではなく、引き波のように儚く、寂しげだった。
「東京にはさ、もっとおしゃれな場所も、綺麗なビルも、面白い人も星の数ほどいるよ。こんな、塩の匂いしかしない退屈な海なんて、きっとあっという間に忘れちゃう。……私のこともね」
「そんなこと、ない」
僕は否定した。けれど、それ以上の言葉が喉に引っかかって出てこない。
『僕にとってこの海は、君そのものだ』なんて、そんな歯の浮くような台詞、意気地のない僕には口が裂けても言えなかった。
八月の終わり、うだるような暑さが少しだけ影を潜め、秋の気配が微かに混じるようになった頃。
瑠奈が「見せたいものがあるの」と、大きなスケッチブックを小脇に抱えて防波堤にやってきた。
「じゃーん。この夏、ずっとこれにかかりきりだったんだから」
誇らしげに開かれたページを見て、僕は言葉を失った。
そこに描かれていたのは、私たちがいつも見ている、あの夕暮れ時の海だった。
けれど、ただの風景画ではなかった。
空は燃え盛るような茜色から、夜の始まりを告げる深い群青色へと、息をのむようなグラデーションを描いている。
うねる波の一粒一粒には、魔法がかかったかのように繊細な光の粒子が宿っていた。
そして防波堤の上には、二人の高校生の影。
肩が触れ合うほどの距離で、けれどどこかぎこちなく並んで座っている、僕と瑠奈の後ろ姿だった。
絵の具の瑞々しい匂いが、潮風に乗って鼻腔をくすぐる。
「すごいな……。今にも波の音が聞こえてきそうだ」
「そうでしょ? 私ね、この海をキャンバスに閉じ込めておきたかったの」
瑠奈はスケッチブックを愛おしそうに胸に抱きしめ、水平線の向こうを見つめた。
「私、ずっとこの海が嫌いだった。何もないし、どこにも行けないし、自分を閉じ込める檻みたいだって。でもね、湊と一緒にここで過ごすようになってから……不思議なくらい、世界で一番綺麗な場所に思えるようになったんだよ。この海が、私たちを繋ぎ止めてくれている気がして
彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ち、夕日の光を浴びてキラリと光った。
その瞬間、僕の中で、ずっと「友情」という箱に押し込めていた感情が、抑えきれずに溢れ出した。
「瑠奈」
僕は彼女の肩を掴み、真っ直ぐにその瞳を見つめた。
「僕は、東京に行っても、毎日この海のことを思い出す。ビルに囲まれても、満員電車に乗って息が詰まりそうになっても、目をつぶればいつでも、この波の音が聞こえるはずだ。……そこにいる、君の声を、僕は探し続ける」
瑠奈は驚いたように目を見開いた。涙が、その長い睫毛の先で震えている。
「だから、待っていてほしい。僕が東京でちゃんと一人前になって、自分の足で立てるようになったら、必ずこの海に戻ってくる。その時は……」
「その時は?」
「君の隣に、後ろ姿じゃなくて、ちゃんと隣に並んで、同じ景色を見たい」
それは、まだ何者でもない一人の高校生の、あまりにも青くて無鉄砲な約束だったかもしれない。
けれど、あの時の僕たちにとって、それが持てるすべての勇気を振り絞った、精一杯の「愛の告白」だった。
凛は一瞬、泣き出しそうなほど顔を歪めたけれど、すぐにその涙を乱暴に袖で拭うと、ひまわりが咲くような、眩しい笑顔を見せた。
「うん。約束ね、湊。破ったら、この海に沈めちゃうから」
そう言って彼女は、スケッチブックからその絵が描かれたページを、思い切りよく破り取った。小気味よい音が、静かな海に響く。
「これ、湊にあげる。寂しくなったら、いつでもこの海を開いて」
受け取った画用紙は、彼女の手の温もりが残っていて、ほんのりと温かかった。
遠くで、波が大きく打ち寄せる音がした。
私たちの頼りない約束を、すべて包み込んで肯定してくれるかのように、海はただ深く、青く、優しく満ちていた。
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あれから五年が経った。
僕は今、コンクリートとアスファルトに囲まれた東京のオフィス街で、忙しない日々を送っている。
満員電車に揺られ、理不尽な仕事に追われ、心が擦り切れそうになる夜は、今でも時々ある。
そんな時、私はアパートのデスクの壁に飾られた、少し端が波打った一枚の絵を見つめる。
そこには、あの日の燃えるような夕焼けと、どこまでも青い海。そして、不器用に並んだ二人の後ろ姿が、色褪せることなく描かれている。
絵にそっと触れると、不思議と耳の奥に、あの懐かしい潮騒の音が聞こえてくるのだ。
「待っててね」
僕は小さく呟き、スーツの襟を正して、再び街へと歩き出す。
私たちの約束は、今もあの海の深さと同じように、私の心の中で静かに息づいている。