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泣く理由を知らないまま
――なぜか朝起きたら泣いていることがある。
目を開けると、枕がしっとりと濡れている。夢を見たのかもしれない。けれど内容は覚えていない。胸の奥だけが、ひどく痛くて、息を吸うたびにその痛みが広がっていく。
冬の朝。古い団地の一室。暖房は壊れたままで、空気は白く、畳の匂いが冷たくしみる。
台所から水が滴る音が聞こえる。母さんは、もう出勤している。朝の五時には家を出る介護士だ。彼女が帰ってくるのは夜の九時を過ぎてから。
僕――蓮(れん)は、布団の中で少しだけ目を閉じた。
あの人の気配がもう消えている部屋で、ひとり分の呼吸だけが残っている。
食卓の上には、ラップに包まれた冷たいおにぎりが置かれていた。
「食べてね。頑張って」
黒いペンで走り書きされた小さなメモ。もう何度も見た、母の字。疲れが滲んでいて、でも優しさだけは残している。
僕はおにぎりを半分だけ口に入れて、残りを机に置いた。喉が詰まって、うまく飲み込めない。
泣きたくはなかった。けれど、涙は勝手に出てくる。理由なんてない。きっと夢の中で、誰かが僕の名前を呼んだからだ。
学校では、誰も僕を気にしない。
母子家庭だと知られてから、クラスの中で空気が変わった。
「可哀想」と言うやつもいれば、「関わると面倒」と言うやつもいた。
どちらも同じだ。どちらも、僕を遠ざけていく。
放課後。
夕焼けの色が街を焦がしていくころ、僕は川沿いの道を歩く。
冬風が肌を切る。遠くで、カラスが鳴く。
ポケットの中には、母が昔くれた小さな鍵がある。古いキーホルダーの先についているその鍵が、何の鍵なのか、僕はまだ知らない。母に聞いても、「大事なもの」とだけ言って、教えてくれなかった。
家に帰ると、部屋は暗い。
蛍光灯の紐を引っ張ると、光が一瞬だけちらついた。
壁に貼られた写真。父が写っている唯一のもの。
母と、幼い僕を抱いて笑っている。けれど、その笑顔が誰だったのか、もう思い出せない。
父が死んだのは、僕が五歳のときだ。
夜、突然の事故だったと母は言った。
でも、葬式の日のことを思い出すたびに、僕の頭の中では「事故」という言葉が遠ざかっていく。母の泣き声と、親戚たちの沈黙が、まるで別の真実を隠していたように感じる。
時計の針がゆっくりと進む。
冷蔵庫の中には、昨日のシチュー。母の作る味はいつも同じ。けれど、それが唯一「家の味」と呼べるものだった。
僕は温めもせず、スプーンで口に運んだ。ぬるい味が、胸に沈んでいく。
その夜、また泣いた。
自分でも理由がわからないまま、声を殺して泣いた。
まるで誰かが背中を撫でてくれているような気がしたけれど、もちろん誰もいない。
夢の中で、僕は薄暗いトンネルの中を歩いていた。
遠くに光が見える。そこには、ぼやけた影が一つ。
「れん」
呼ばれた声が、懐かしくて、温かくて、そして苦しかった。
僕は走ろうとしたけれど、足が動かない。
光が遠ざかっていく。手を伸ばしても、届かない。
その瞬間、目が覚めた。
午前四時。窓の外はまだ闇。
息が白い。
枕は濡れていた。
また泣いていた。
机の上には、母の鍵が置かれていた。昨夜、確かにポケットにしまったはずなのに。
その鍵の先に、小さく刻まれた文字があることに初めて気づいた。
――“For you, when you’re ready.”
英語の意味はなんとなくわかった。
「お前が準備できたら、それを開けなさい」
僕はその日、初めて父の墓へ行くことを決めた。
誰に教えられたわけでもない。ただ、何かに導かれるように。
冬の空は重たく、灰色だった。
墓の前に立つと、鍵を握る手が震えていた。
墓石の裏に、小さな金属の箱が埋め込まれていた。
錆びついた鍵穴。まるで、ずっと誰かが来るのを待っていたように。
鍵を差し込むと、かすかに「カチリ」と音がした。
中には、一枚の封筒が入っていた。
「蓮へ」と書かれていた。父の字だった。
手が震えた。
中を開くと、古びた便箋に短い言葉が並んでいた。
――ごめんな。
――お前と母さんを残していくことになって。
――でも、いつかお前が泣かずに朝を迎えられるように、俺は祈っている。
便箋の端に、小さく滲んだ跡があった。
それが涙か、雨かはわからない。
でも、その文字を見た瞬間、僕は静かに泣いた。
今度は、悲しみではなく、確かに「温かさ」で泣いた。
帰り道、空に少しだけ光が射していた。
長い夜が終わりかけていた。
歩く足音が、凍った地面に小さく響く。
――なぜか朝起きたら泣いていることがある。
でも今日は、その理由が、やっとわかった気がした。
父と母と、自分が確かに「家族」だったということ。
その記憶が、夢の奥で、僕を呼んでいたのだ。
そしてその朝、初めて、僕は泣かずに空を見上げた。
冷たい風の中に、誰かの声が微かに溶けていた。
――「もう、大丈夫だよ」
この話はフィクションです。言わなくてもわかると思うけど。
まぁなんか気づいたら泣いてることってよくあるよね〜うんうんわかるわかる〜
まぁうちは片親ではないのでねそこが違うからフィクションですね〜は〜い
二度寝しま〜す。
オヤスンミ