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〖永訣の夜〗
暗闇の中で閃光のようなものが走った。
それは木々をしならせて轟くような轟音、銃声を立てて蓮の頭を貫いていた。
直後に脳を掘消して貫通した弾は火山のように血とともに噴き出して地面を赤く染めていった。
すぐに駆け寄っても彼は既に息絶えていて、それでも大慌てでもう魂の抜けた身体を抱え起こして麓まで急いだ。
頭の中で無意味なことであるとは分かっていた。その無意味を証明できる頭がひどく悔しく、憎々しい。私は足元よりも木々に視線がいき、紐が不自然にあろうと確定していない事実に不審がなかった。一回目で無事だったのだから二回目も無事だろうと、慢心があった。
もしも、懐中電灯を足元に照らせていたのなら、古典的なものに彼が引っかかることはなかったのだろうか。
山を下りて、既に私は彼から伝った血で身体を真っ赤に染めていた。夜明けの早朝に頭を打ち抜かれた男性と血塗れになった私を見た村民は診療所から医者を呼ぶも初めから死んでいる患者を医者が治すなんてことはもちろん、難しい話だった。私は、本当に死んでいるのかと正解を分かっているはずの頭が、何を求めたのか何かないかと遥に諭されるまで叫び続けていた。
血に濡れた身体を洗って、少し落ち着いた辺りで村の自警団が話を聞きに足を運んできていた。
自警団が言うには現場には黒い蹴り糸と鏡、不自然にぽっきりと折れた樫の枝、点在した紐だけが残されていたとの話だった。
ただ今現在分かるのは、犬馬の心を持つ彼が吠える番犬、主の盾と言うように守り抜いたのは確かだった。そう、思う。思いたい。
少し笑ったような紺の笑が厭らしいぐらいに診療所から貫いている。
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一際に見た死者の顔を、夏の葉緑のように深い瞳に映していた。診療所の椅子に座る青年は綺麗な瞳を伏せたまま何も言うことがない。静寂だけが包む中で、従者などが来る様子もなかった。
「……誰も来ないね」
その言葉に、彼がびくりと身体を震わせる。
「ああ……私は、子供じゃないからね」
少し口角の上がった唇に胸の底で安堵が沈み、更に言葉を続ける。
「なんで、君が来たんだ?」
「心配だったから。いいでしょ、友達のよしみだよ」
「……そうか」
伏し目気味の緑が、やや薄クリーム色の髪の細々とした中で泳ぎ、火中に舞う花弁のようで、ひどく欲情とはまた別の熱が心底に帯びる。
診療所の壁には知育用の平仮名の練習用ポスターや過去の医師の顔が誉れのように飾ってある。
「自警団が言うには……現場には黒い蹴り糸と鏡、折れた樫の枝、点在した紐だけがあったらしい」
「折れた樫の枝?別に、普通じゃないの?」
「自然に折れたものじゃないんだよ。子供の腕ほどの枝が、根からぽっきりと折れていたんだ」
「……折れた、ねぇ……」
瞳の中をポスターが泳ぎ、中に小さな熊のキャラクターが『おかあさんと、おとうさんといっしょにあそんでね』と吹き出しをつけてにこやかな顔を崩さない。その隣には背景と思われる森が広がっている。まったくもって気味が悪い。あの距離の間合いが分からない棗も、異様にすり寄ってくる月も、献身的な天気でさえも……。何が悪く、何が良いという話ではない。ただ、とてつもなく怖い。肌を這い寄るような善意が気持ち悪い。
「なぁ、湊」
「あ?……ああ、なに」
「殺された、でいいよな」
「……多分ね」
誉れある医師のポスターがちらつく。どうせ、人様は。
「使うとしたら、猟銃か?」
「かもしれないね」
どうせ、人様は国家を築いた偉人の顔など。
「調べて、みようか。私もそろそろ行かないと」
どうせ、人様は国家を築いた偉人の顔など、多少なりとも知っているだけで微塵も覚えていないのが定義なのだから。前葉頭さえ吹き飛ばして、沼に浸かっても何も手にはいらない。それが分かるのが、彼だ。彼でしかいない。彼だと決まっているのだり
サンタマリアなど信じない。微酔に舞う神よりも、叛逆する悪魔こそが好ましい。
悪魔は人を誘うがために人の姿を模するが、神は畏怖させるが如く神秘的な奇形を得るのだ。もし、彼が悪魔だと言うのなら、悪魔に魂を売ってしまってもいい。
そうやって咲いたものが、いつか枯れると知りつつも、ひとときの愛を演じた慈愛の中に酔った脳を預けさせてくれ。
嗚呼、花よ、花よ、微睡みの中で美しく咲いておくれ。
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薄く差し込む朝日、靡かない古ぼけたカーテン、誰もいなくなったキッチン、思い出の詰まった押し入れ、昨日お互いが一つになったばかりの綺麗な布団、机に飾られた涼しげな青紫色の桔梗。
ふと、かけられた布団の中で小さな頃の思い出に浸る。
鬼ごっこが好きだった。鬼が子を探す幼稚なゲーム。
『もういいかい?』と聞く声に『もういいよ』と答える返事が自身の居場所のようだった。
彼である鬼が、自身を求めているようで何分、心地良かった。
それはきっとあの可哀想な隠れる仲間も同じなのだろう。暗がりの中で生きた男に縋るしかない子は仮面を被って自分には与えられない愛を語るしかない。それでも、知るはずのない愛を語るなどできるものなのだろうか。
鬼ごっこで、無垢な時代にあの子と同じ場所に隠れたことがある。あの子は無邪気に笑っているだけだったが、見つかった後に彼は少ししょんぼりとしつつ、言うのだ。
『朔はいいよね、見つけてくれる人がいてさ』
その言葉が今でも離れない。やはり、あれには狂気が我を貫いてすこぶるみっともないのだ。
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「嘘だな」
痛苦しい水色の瞳が、まるでシンデレラのようだ。死ンデレラ、死ンデレラ……。
葉狐はいない。冷泉はいない。愛知はいない。伊鯉はいない。くそったれ、必要な時にいやがらない。くそったれ!
「何が嘘なんだ、エセ不良め」
「はっ、寓話ばっか話しやがる口には、それが一番いいな」
「自己紹介か?教壇にでも立てよ、お前。いいコ気取って部屋ン中でお絵描きよりもよっぽどいいぜ」
「だったら、黙って聞いてろよ。インチキ宗教の優等生。今ならタダでいいぞ」
金取るのかよ。優しくないシンデレラだな。まだ、瞳の木偶の坊が言葉を垂れ流す。
「……運命は変えられる……だから、分かってるだろ。間違ってる。どう考えたって無茶だ」
何度も聞いた、典型例。間違ってる。分かってる。でも、変わらないならこうするしか道がない。シンデレラは踊っちゃくれない。魔法にもかからないし、靴も残さないし、履いてもくれやしない。
「そんなことはない、運命は変えられない」
言い聞かせる。それでも、結局シンデレラは踊ってはくれない。
「お前なんか、勝手に死んでしまえ」
嗚呼、シンデレラ。どうか、どうか、僕と踊ってくれませんか。
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嗚呼、ほら!ほら!ほら!面白くなってきた!
頭ン中は木蓮の霧が、霧の中に咲くマグノリアをようやく手に取った!
縁側の横で声をかけた湊さまが、月さんにこっぴどく振られなすった!よぉく、よ〜く、見ていてね、サンタマリア!我が身や栄光の腫瘍を得て、首ったけ!
いつもより少し、余裕のない横顔を見せた女誑しが、口を尖らせて毒気づく。
「……棗…………なに、笑ってんの」
なぁにがおかしい?これがおかしい!貴方様がおかしい!
わたくしめの大っ嫌いな黒蛇が、黒塗りの黒梅がちろちろと舌を嘲笑う。笑え、笑え、笑え、干されて乾いた狸が焼酎持って踊り狂い、晩餐中!
どろっ、どろ、どろ、どろ〜、どろ!どろろろろ!どろっ!
「笑っちゃダメでしょ、君」
女癖が相まみえた簪狂いの天宙の天気さんが、何を言う!
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僕、君のこと嫌いなんだよね。僕、君のこと嫌いなんだよね。僕、君のこと嫌いなんだよね。嘘、嘘、嘘、嘘、嘘!嘘!ねぇ、嘘って言って!冗談だって!妄言だって!全部、全部、否定して!簡単でしょ。得意でしょ。嘘つき、嘘つき、嘘つき。
後から棗の笑い声と、湊や天気の声が聞こえる。嗚呼、ほら皆、月のこと嫌いなんだ!嫌いなんだ!大っ嫌い!大っ嫌い!
散らばったコーヒー缶を空に蹴って、カッターが腕を這う。引けば天国、戻れば地獄。地獄の方が生きられる?天国も地獄も、そう変わらないじゃない。
思いっきり刃が切り裂いて、中からスイートベリージュースが噴き出してはバスタブを真っ赤っ赤。鉄錆が顔を汚して、綺麗に舐めとって、お天道様がお迎えに、ようこそ夜伽。ぐちゃぐちゃベリーがぼろぼろ溢れて、頭がくらくら。脳もベリーに酔ったみたい。
月は太陽の影に!月は浴槽の血の中に!おめでとう、有り難う!!
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虫の声が泥みたいに纏わりついて、離れることを知ろうともしていなかった。地面は秋の色を帯びて、遮光の中に枯れ葉を照らす。それが、ひどく羨ましく己が名前を呼ぶようだった。
その光景を瞳が映すのが嫌であるかと問われれば、厭なものだと答えただろう。誰もが、自分自身を呪って、恨んで、妬んでいたのだから。
「秋人」
一番に嫌な声が後ろからかかる。低くも、どこか不安定な妙に気持ちが悪い声。脳が何かを否定して、警鐘を鳴らしている。
「……湊?」
「いや、うん、そうだけど」
「本当に、湊か?」
「僕を化け物とでも言いたいの?」
まさか。まさか、そんなはずはない。いくら信用ならないとはいえ、早々に嘘を吐くような人ではない。
「いいや、ただ……」
「信じなくていいよ、信じないだろうから」
「あ、ああ」
何かがおかしい。おかしいと、叫んでいる。ふと、あの喉にへばりついた焼け野原の欲情を吐き出したトイレの中の虚ろに優しさを包んだ瞳と、今の遠く遠くを見つめるどうしようもない欲動を孕んだ瞳が重なり続ける。何かが、何かが、違う。誰かに似ている。知っている。知っている、瞳。よく知っているはずだ。
「なぁ」
ふと、カマをかける。メスのカマキリが同族を捕食するみたいに、鋭くて大きな手の鎌で、首を跳ねる用意をするような言葉が喉から漏れ出そうとする。
「お前って、嘘ばっかりだよな」
目の前の知っているはずの誰かの喉が生き物みたいに、大きく動く。これが何か、何なのか知っている。見たことがある。吐き気がする程に匂う薔薇の綺麗に捨てられた臭さと、その臭さが染みまくったすぐに汚される柔らかなベッドの上で。
誰かが、ようやく薄い唇を動かして答えを吐き出し始める。
「……そうなんだ、知らなかった」
「お前」
「うん。おかしいって、思ってる……自分でも、自分でも、思ってる。けど、こうしなきゃ見てもらえないから」
「だとしたって、なんで。もっと、早くに現れてくれれば」
「できないから。できないから、こうやって真似事ばっかり、しないと」
あの嘘つきと同じ顔で、あいつが絶対にしない顔で、歪んで必死な顔が見える。虫の声がすぐ近くで警鐘を鳴らし続けている。でも、逃げろなんて言っていない。
「俺は、お前が誰だってどうでもいい。どうでもいいけど、湊をどうしたって俺みたいになるだけだ」
変な自白。独白。告白。嗚咽はあがってこない。
「……ご忠告、有り難う」
ただ、それだけだ。やっぱり、こいつは湊じゃない。
指が、以前よりも激しく震えている。指だけじゃなく、全身まで。もう無理だ。もう限界だ。それが近いなんて、分かってる。分かってるんだ。
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それは、まだ暑い暑い夏の日のことだった。蝉時雨は五月蝿く鳴いて、今の鈴虫が鳴く秋とは到底なり得ないものだった。当時はまだ弟の十綾が中学を卒業して専門の高校へ行ったばかりで、引っ越したばかりの荷解きもまともに終えていなかった。
味気ないスパゲティを胃の中に無理やり詰め込んで、長い休みばかりの大学生活が奇妙に思えていた。アルバイトの時間までに家で過ごして、バイト先の喫茶店に足を運ぶだけの仕事とも言えないような仕事。親戚に就職をしたいと言っても、「若いんだから」「頭が良いんだから」と枕言葉をつけて進学を希望せざるを得なかった。無論、天才であったわけでも、秀才であったわけでもない。単に、少しの上と、中を行ったり来たりしていただけだった。
少々年季が入りつつも、どこか人を寄せつける不思議な雰囲気のお洒落な喫茶店で、一人の男性が顔を出した。まだ若い風貌の好青年だった。
「いつも有り難うね」
笑って、少し汗ばんだ半袖から日に焼けていない肌が覗く。何事もなく言葉を返して、店内で掃除をしながら客を待つ。手に取ったコップの氷がからんと音を立てる中、耳が鐘の音を拾った。挨拶をしようと客の顔を見て、自分の顔が奇妙に引きつったのを覚えている。
月のように、白肌の上に点々としたそばかすと、醒めたあの瞳、暗闇の中でも輝くような長い銀髪。中学になる頃には、地元に離れていた神社の女の子だった。朔、朔、朔……名前が脳を焦がすようにして思い出され、喉が唾を飲み込んだ。
「……神宮、寺」
まだ、朔ちゃんと呼べるような関係に戻ってもいなくて。どうにか絞り出した一言が変に掠れていた。その一言が、最後に少しだけ上ずった。真夏の果実のような甘く熟した天女の横に、似つかわしくもない男性が立っていた。男性は朔の隣で俗世な金のネックレスをちゃらちゃらと鳴らしながら、ごつい手を腰へ回す。年齢も離れているように見えていて、虫が這うような、燃えるような嫌な気分が駆け巡っていた。
駆け巡り続ける不確かなものを振り払って、盆の上のコップに水を注いで、できるだけ顔を見ないようにテーブルへ置く。
「ご注文は、お決まりですか?」
そう、マニュアル通りの言葉を憎々しげに吐く。男性の顔はメニューに隠れて、朔はこちらを見ているかも分からなかった。その中でメニューだけが言葉を返した。
「ナポリタンスパゲッティ、一つ。あ、大盛りで」
ナポリタンスパゲッティ、大盛り、一つ。反芻した言葉へ逃げるようにしてメモを書く。男性の言葉が続く。
「あと、コーヒーとカフェオレを一つずつ。どっちも砂糖はいらねぇ……朔、飲めたよな?」
「……ええ」
コーヒー、カフェオレ、砂糖なし、二つ。会話を聞きたくない。
「ご注文の品は、以上でよろしいですか?」
男性だけが頷く。それが発射口の合図のようで脳は相変わらず逃げたがっていた。お辞儀をして逃げようとした。逃げようとした矢先に、彼女の声がかかった。
「あのさ」
「え?」
「そういう関係なんかじゃ、ないから」
「……うん」
変な会話だった。そのまま足が下がって身を引く瞬間に、男性が、朔の手に重ねつつ、口を動かす。
「朔〜、アイツとなに喋ってたん?」
「……なんでもないよ」
なんでもない。そう、なんでもない。なんでもないよ。僕たちは、なんでもない。なんでもない、はずだった。
その日も蝉は五月蝿くて、喧しく鳴いているだけだった。
「兄貴」
二つ下の弟が、ピアッサーを持ちながら不安げな顔をしていた。珍しく昔のような面影を残した顔が、綺麗だった。
「どうしたの」
「保冷剤って、あるか?」
「……あけるの?」
「ダメかな」
「別に。やってみても、いい?」
「……ああ」
本当に珍しく、素直だった。別人かと思うぐらいに素直で、可愛らしかった。冷蔵庫から保冷剤を出して十綾の耳朶の感覚がなくなるくらい冷やす。時間が経ってからよく冷えた耳朶をピアッサーで挟んだ。ばちっと花火が跳ねたみたいな音がして穴が開く。少し歪んだ横顔が、なんとなく好きだった。普段は見れなかったからかも、しれないけれど。
「それってさ……痛いの?」
「痛いもんは痛いだろ」
「そっか」
十綾が立ち上がって小さく「有り難う」と呟く。それに応えようとした時、玄関の方からインターフォンが鳴った。
「見てくるよ」
「分かった」
足早にドアスコープを覗いて見えるのは、醒めた瞳だった。あの娘、だった。
ドアチェーンを外して、鍵を回す。マニュアルの、普通の、普段の動作。たった一つ違うのは、相手だけだった。
「久しぶり」
何事もないように朔が呟いた。長い銀髪が夏の陽射しに照らされつつ、生暖かい風に靡いていた。
「……久しぶり」
「私のこと、覚えてる?」
「まぁ、うん、覚えてるよ。昔に遊んでいたから」
「……良かった。ねぇ、八代くん」
「亨で、いいよ。どうしたの?」
「ちょっと付き合ってほしいの」
胸の奥が、どきりと音を立てて否定を身構えているような気がした。
蝉が、蝉が、蝉だけが、五月蝿い。鼓動と同じくらい五月蝿い。頬は夏の暑さよりも、太陽よりも、紅潮していて氷ですら、すぐに溶かしてしまいそうだった。
「亨くんが、私のこと覚えていてくれて良かった」
熱が頬を包み込む。まだ鼓動は速さを覚えている。
「そうかな」
「そうよ。私、嬉しかったから」
「……僕もだよ」
蝉が止まる。
「昨日のこと、覚えてる?」
「喫茶店のこと?」
「そう、変なところ見せたでしょ」
「ああ……そうかも」
「否定してよ」
彼女がくしゃりと頬を緩ませて、微笑んだ。そして、続ける。
「私、あの人のこと嫌いなの」
「は?」
「彼氏みたいでしょ、でも付き合ってないのよ。ただ、言いように使われてるだけ」
生暖かい風が頬を撫でる。気味が悪くて、しょうがない。それでも、僕の唇は動いていた。
「……まさか、だけど」
「その、まさか」
「あ、えっ……あぁ……うまく言葉が出ないけど、その……」
「言いたいこと、分かるわ。でも、言っていい」
「……え、援交?」
「うん」
悪寒が実態になって、重りみたいに身体全身を潰しているようだった。
「それは……なんで、どうして?」
「気づいたら、こうなってたのよ」
「親は?弟の、大和くんとか」
「……言える?」
「いや……」
「そういうこと」
「で、でも、こんなの僕に話したって……」
「……どうにもならないのは、分かってるのよ」
「じゃあ、なんで」
「でも」
食い気味に、朔が詰め寄る。
「でも、貴方ならできると思ったの。私のこと、解放してほしいの」
「そんなこと言われたって」
「じゃあ、運命って変えられないものなの?」
「そ、そんなことはないよ。運命は……変えられるよ」
真っ直ぐな、醒めたような瞳がいやなくらいに刺さる。刺さり続ける。
「なら、救ってくれるでしょ、貴方なら……貴方だけが、頼りなの」
「でも……僕は」
「亨、くん。お願い、貴方しかいないから」
夏の陽射しが逆光になって、真上まで昇った太陽がアウレオールみたいで、ひどい熱情と欲情がぐちゃぐちゃにミキサーにでもかけられて、恐怖をトッピングされたように燻っていた。
何に駆られたのか。蝉に駆られたのか。彼女に駆られたのか。僕自身に駆られたのか。それすらも、分からない。分からないけれど、どうにかしたいと思ってしまった。
大学を終わって、バイトをして、朔とあの男性を追うだけの日々だった。解放して、救ってなどと言われても、何をすればいいのかなんて分からなくて。警察すらも頼れそうにもなく、電柱の向こうから男性のボロが出るのを待つだけの何もしないついてくるだけの人になっていた。それでも、彼女はどこか嬉しそうにしていて、心の中でなんとなく「悪くない」と思っていたのかもしれない。
コップの中の氷がとっくに溶けているような時間を過ぎ去り続けた、煙草とお酒の夜の匂いがする橋の近くの道で、千鳥足でまともに歩けてすらいない酔った男性に肩を貸す朔と、遠くからついてくるように歩く僕。奇妙なパーティーメンバーだと思っていた。その日は珍しく、男性が橋に身体を預けていて、朔が背中を擦っていた。それを見ていて僕は、いけるんじゃないか、そう思っていた。邪な考えで、今思うと恐ろしく人の道を踏み外した狂気に染まっていた。
脱兎の如く、走り出して男性の背中を思いっきり押そうとした。男性は驚いた顔をして、ほんの少しだけ笑っていたような気がする。
「待って!」
朔が横から叫んだ。もう遅かった。手の感触は驚く程にリアルで、熱を帯びた背中に細い手が入り込み、簡単に男性の身体を橋から落としていた。
ばしゃんと水音がして、真っ暗な水の中に男性の身体は浮かんでこなかった。正確には、数日後にテレビで浮かんでいたという放映があったけれど、僕は見つかっていなかった。
男性を落とした後、動悸はひどく激しく、冷たく、冬の水のような恐ろしさを含んでいた。橋の上で呆然と立ち尽くす僕に、朔は手を引いて近くの公園まで行く頃には、僕はただ、子供のように泣いているだけだった。彼女は何も言わずに僕の背中を撫でながら、抱きしめているだけだった。嗚咽だけがその夜の会話だった。
その後は、もう朔とあのことを話もせずに疎遠になって、数年経つまで彼女とは会わなかったけれど、どこかで送った手紙には安堵の旨だけが記されていた。今思うと、僕は彼女にどんな形でも、尽くしてやりたかったのかもしれない。
それでも、結局、彼女のことはそれ以外は何も知らなくて、感情が好きになったのかすら知らなかった。コップの中の氷は溶けて、蝉は鳴き止み、僕はコップの水を飲み干すこともしなかった。
知らないを知りたかった。好きになりたかったのに、好きになれなかった。
僕はまだ、水の味を知らない。
紅葉が窓の外で色を帯び始めている。瞳はいやに濁り始めている。鐘の音が、近い。チャペルなんてものではない。それよりも、幸せそうな優しく甘い……罠、かもしれない。それでも、心酔の手中で寝入るのだ。幸せを呼ぶ丸い貝を、探し続けている。
**あとがき**
メンヘラは子供っぽい子だと思ってる。