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あ
「池の水を全部抜こう!みたいな生態系になんらかの影響を及ぼしそうなバラエティの企画を見て、僕はいよいよテレビ局もネタ切れかと思ったんだけど、それが割と前からやってる番組だと知って日本ってすげえなと思ったんです。
ねえ、先生。僕合唱を習ってるんですよ。そう、町の教室で。おばさんの先生が一人と、若いコーチと、生徒が十数人の。
でね、僕アルトを歌ってるんですよ。そう、テナーじゃないんです。声がね、割と高いからって、君はアルト向きの声してるって、先生に言われて。あ、先生って言ってもあなたじゃないですよ。はは」
「それでね、先生。コーチが指揮を振ってるんですけど、彼うまいんです、すごく。なんか、強弱?リズム感?みたいなのが、あー音楽やってる人なんだなあって感じで。で僕、ずっと指揮を見てるわけですよ。そりゃそうですよね、だってねえ、合唱ですから」
「で、ですよ、その指揮する彼を見てて僕は、僕が彼を見てることは、僕の視線は彼の服を貫通して彼の臓物とその中にある細胞の核とDNAまでを見通して、彼の背後にある空気をも見ていて、その空気を吸った人の頭から抜け落ちた髪の毛をも見ていて、その髪の毛を見て嫌な気持ちになってデートに遅れた男の顔をも見ていて、その男に遅れられた女の溜息をも見ていて、その溜息によって空気が動いてあのとき僕がその空気を呼吸したんじゃないかと想像することと同義じゃないかなって、そう思ったんです。どうですか、先生。」
「そうですね。」
私はペンを置いて、最早カルテを見なかった。
この男は、英知は、いつになっても治らない。
英知がなんの脈絡もないタイミングでなんの脈絡もないことを猛烈に喋り出すのはいつものことで、それは独り言として聞き流したって別にいいのだけれど、もしその中に以前の彼がよく呟いていたような希死念慮や自殺願望が混じっていたらと考えると、頭の底が冷えて聞かざるを得なかった。
「僕、合唱を習って初めて音楽の面白さに気づきました。合唱っていいですよね、僕はソプラノとアルトが混ざり合うのが何より好きで、だってテナーもそりゃいいですけど、やっぱり高い澄んだ声って耳に心地いいんですよ」
英知はうっとりと潤んだ目で視線を宙に遊ばせながら言う。色素の薄い彼の目は、しかし天井のほのじろい照明の明かりを吸い取ってしまう。おかげで彼の目にはいつもどこか翳があって、私はその具合に右往左往する。
彼のくしゃくしゃの病院着に一滴でも血の滲みがあれば気になるし、彼が咳でもしようものなら問い詰める。そういう私の姿は滑稽で、とんだお笑い草だ。私たちはずっとコントをやっているのかも知れない。
この頭のおかしい男と、死ねない医者の私は、かれこれ七年の同居生活を続けている。