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好きな人だなんて
執筆日∶2025/01/06
日替わりお題∶「現実逃避」「抹殺」「リハビリ」
使用したお題∶「現実逃避」「抹殺」
「嫌だ! こんなの……嘘よ!」
目の前で赤く染まっていく床。
「|優斗《ゆうと》……優斗くん!」
私の大切な人。これから二人で互いに愛し合って、結ばれて、一生一緒に居るはずだったのに。
私の大切な彼氏。彼の鼓動は、そこで鳴り止んだ。
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「|佐々木《ささき》さん、二十一日の夜、何があったか覚えていますか?」
私は今、診察を受けている。目の前の医者は、私を深刻そうな目で見てきた。でも、私にはその意味が分からない。だって、私には何も無いの。医者に診察されるような事も、経験してないの。それなのに、なんでこんな大きな病院に、私はもう数日も居るのだろう。
「えーっと、二十一日の夜、ですか? そ、そうですね……、特に何もありませんでしたよ?」
「……そうですか」
思ったままの事を言っただけなのに、医者は残念そうな顔をこちらに向ける。どうしてなのだろう。本当に、私は嘘をついていないし、そのままの事を伝えただけだ。医者にとって、二十一日の夜に何か無かったら不都合なのだろうか。おかしな事だ。
「あのー……」
「はい」
「私、なんで病院に居るんでしょうかね? 何もしてないんですけど……」
率直な疑問だった。私は本当に、自分が病院に居る意味を理解できていない。医者に聞けば何か分かるとは思ったが、その医者は私の言葉を聞くと、頭を抱えだした。
「……そう、ですか」
「え? そうですかって、何が?」
医者が少しばかり苦しそうな顔をしているので、思わず心配してしまう。いや、心配というよりも、困惑してしまう。一体、何があったんだろうか。
「……佐々木さん。あなたには、恋人が居ましたか?」
「……はい?」
突然に、医者からプライベートな質問を投げかけられる。なんで診察中に聞いてくるんだよと思うが、まあ多分必要な尋問なのでしょうと自分に言い聞かせ、私は答えた。
「え、居ませんが。彼氏なんて居た事ありませんよ?」
医者は、ハッとしたような表情を見せた。なんでそんな表情をするのか、私の気持ちは困惑から恐怖に変わっている。もう早く、一刻も早くこの場から解放されたかった。
「そうですか……。では、好きな人は居ましたか?」
「いませんねー。出会いが無くて、お恥ずかしい」
「何かしらの事件現場を見た事はありますか?」
「いやいや! そんなの、無いに決まってるじゃないですか。なんでそんな事を聞くんですか?」
質問を投げかけられ、答える。そんな単純な事だが、私はそこに違和感を覚えた。質問の内容が明らかにおかしいのだ。事件現場だとか、質問内容が正気とは思えない。医者に対して少し警戒の素振りを見せつつ、私は逆質問した。
「……二十一日の夜の事、何も覚えてないんですね?」
それなのに、医者は逆に問いかけてきた。この人の言う事は全部、全部頭がおかしくなりそうで、もう限界だ。
「……だから、何も無いんですってば!」
私は部屋の机を叩きつけて怒鳴った。だって、そうしないとなんだか頭が変になりそうだったから。いや、それはさっきからの事だ。さっき起きてからずっと、原因不明の頭痛が止まない。ズキズキとした痛みが脳内で蔓延っていて、本当に世界がおかしく見えるのだ。
誰か、助けてほしい。
「すみません。佐々木さん、もうお戻りいただいて大丈夫ですので」
医者は困ったとでも言いたそうな眉と目元をしている。その様相を見て、一層訳が分からなくなる。なんで私はこんな所に居るのか、なんで医者は何かを聞きたそうなのか、なんでさっきから頭が痛いのか。呼吸が乱れそうな程に、何が起きているのか理解のしようもなかった。
「……そうですか。じゃあ戻ります」
とりあえず自分を落ち着かせようと、私は自室に戻る事にした。といっても、自分の家とかではなく、病院内の自分のベッドが自室なのだが。早く家に戻りたいのだが、どうやら誰かがそれを許していないらしい。こんなに異常もないのだから、退院したって良いじゃないか。なぜ、私はどこにも行けないのだろうか。嫌になってしまう。
「はい、ありがとうございました」
医者の言葉を冷たく流して、私は部屋のドアを開けた。ガラガラと無機質な音が耳の中に入り込んだ。
「はぁー……、ほんとになんなの? 悪夢なら早く覚めて……」
本当に、これは悪夢か何かだろう。だっていきなり病院に居て、訳の分からない診察というなの尋問を受けて、その名ばかり診察の内容はちんぷんかんぷんなもの。こんなの、れっきとした悪夢だ。そうに違いない。私は今、夢の中に居るんだ。
「私には好きな人も、恋人なんて居ないし……。あー、変な質問されたな。まさかあれ、新手のセクハラか?」
病室までの道を淡々と辿りながら考える。私には、恋人はおろか好きな人すら居ない。好きになってくれるような人だって、絶対に居ない。それを聞いてきたあの医者は、まさかセクハラジジイという奴だったのだろうか。そうだとしたら怖すぎるし、より一層、早めに退院したい気持ちが高まってくる。私はもっと深く強く、ここから抜け出そうと感じた。
「はは、私に好きな人……だなんて……」
好きな人だなんて居ない。たしかにそう言いたいはずだった。そのはずだったのに、次の瞬間、私の目から涙が溢れ出して、嗚咽が止まらなくなった。言いたかった言葉は宙を浮いて、病院の空気に消え去った。
「なんで……。何も、ないのに」
そう、私には何もない。フラッシュバックするようなトラウマだって、どこにもない。私を愛してくれる人だって、どこにも居ないはずなんだ。それなのに、どうしてだろうか。なぜか、誰かの優しい笑顔と声色が、頭の中を回ってしょうがないのだ。この記憶は一体なんなんだろう。どうしてこの記憶について考えると、どうしようもなく虚しく、悲しくなるのだろう。
「……誰だよ……」
好きな人だなんて、どこにも居ない。確かにそのはずだった。なのに、どうしてだろう。
今は、心の中に、愛した誰かを失ったような隙間があってしょうがない。
主人公の佐々木小春ちゃんは大学生で、両思いであった男の子の優斗くんとデートをしていました。ですがその時、優斗くんが信号無視の車に轢かれ、優斗くんはその場で死んでしまいました。小春ちゃんはそれがトラウマとなり、その後あまりのショックで、事故現場でそのまま気絶、起きた後も優斗くんに関する記憶を全て忘れてしまいます。それがこの物語の正体です。主人公はあの時の記憶を抹殺して、現実逃避をしていた、という訳ですね。ちなみに小春ちゃんが居た病院は精神病院です。
あぁ、また暗いお題と話ですよ……。いや、このお題確かにストーリーは組み立てやすいんだけどさ……。にしてもさ……。暗くない……?