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嘘つき・前
🦇
小鳥も囀るある日のことだった。本来ならば退屈なほどのどかな木々に覆われた平原地帯でのことだった。“射手座”が死んだあの日から,状況は急速に悪化した。
あれからいくつの日が経っただろうか。オレは,地平線まで果てしなく続く草原を病院の一室の窓から眺めていた。何かを特別探していたわけではない。ただぼうっと,何も考えず,現実から目を背けるように,行き場のない思いから逃れていた。視線を左にずらすと,俯いたまま考え事をしている山羊ちゃん……山羊座が目に映る。義弟を失い,大切な仲間を,友人を失い,彼女の目はかつてないほど焦燥と殺意を孕んでいた。
射手座が殺害されてから,その者による12星座の虐殺が始まった。あの日から数日しか経っていないにも関わらず,残った12星座は片手で数えても指が余る程にまで減ってしまった。この世界に生きるオレでさえ,理解し難い状況なのだから,この世界そのものでさえきっとこの状況を読み込められていないことだろう。未だかつてこの世界を守る最強の12人が,他者によってここまでの数を減らされることはなかったのだから。
山羊ちゃんの落とす視線の先には,ベッドに横たわり,微動だにせず静かに目を閉じる兄貴…カロリの姿がある。オレと兄貴は,虐殺が始動するほんの数日前,何者かに意識を乗っ取られた。そして射手座,および山羊座の殺害を図った。結果的に失敗に終わり正気を取り戻せたものの,その時に義姉を守ろうとする射手座の放った攻撃が直撃した兄貴は昏睡状態になった。医者曰く,目覚めの目処は立っていないらしい。生命力の衰退が急激で,オレはしばらくここを離れられない。
オレも,山羊ちゃんも,正直心は限界の警鐘がけたたましく鳴り響いていることだろう。けれども,どちらも相手には何も話さない。どちらも,助けを求めているはずなのに。
数時間にも及ぶ無の時間を破ったのは山羊ちゃんだった。視線を時計に移したあと,重々しくも椅子から立ち上がった。そして外に繋がる扉へ歩みを進めた。が,その足はすぐに止まった。手首を掴まれたからだ。
掴んだのは,オレだ。
「…なんだい。」
山羊ちゃんは振り向きもせずに問うた。時間を見れば,いつもの見回りの時間であることは明らかだ。12星座が大幅に減っても尚,いや,減ってしまったからこそ,自分がなんとしてでも平穏を守らねばならない,とでも思っているのだろう。そうだとすれば,引き留められては鬱陶しいに決まっている。そうだとわかっていながらも,オレの手は山羊ちゃんの手首を離すことができなかった。
「………行かんといて。」
自分でも驚くほど小さく,掠れた声が出た。
オレはただ,怖かった。兄貴が目を覚まさなくなった後から山羊ちゃんの背中を見るたびに途方もない恐怖に駆られていた。この背中から離れたら,また失ってしまうかもしれない。山羊ちゃんまでも失ったら,オレは本当の意味で1人になる。今までずっと隣には常に兄貴がいた。そんな人生を生きてきたオレにとって,1人がいかに恐ろしく未知であるかなど自分でもわからない。オレの指先は,若干震えていた。
それを感じたのかどうか定かではないが,山羊ちゃんはオレの方を振り返った。その顔は,どこまでも真剣で,固い意志を感じるものだった。
「まったく,何がそんなに心配なんだい?僕は12星座の中でも3強と数えられてる星座だ。そんなこといちいち言わずとも,君が一番よくわかっているだろう?」
山羊ちゃんは少し呆れたように溜息を交えてそう言った。オレはただ俯くように浅く頷いた。山羊ちゃんの言う通りオレは,山羊ちゃんが強いことを知っている。12星座の中でも,3強と呼ばれ一目置かれている存在であることも,現12星座で最も12星座である歴史が長いことも。
だからこそ,だからこそ怖かった。想像したくもない未来を想像して,勝手に不安になっているだけなのだが。
「………それなら,僕がこれからやるべきことも,わかっているだろう?」
空気の流れが変わった。辺りは標高の高い山のように酸素が薄く感じられる。山羊ちゃんの顔が,表情が,そう思わせるほどひたむきだった。オレはその気に押され,手首を掴む手が弛む。
「……いやや…山羊ちゃんまでいなくなってもうたら……オレ……もう,どうしたらええかわからへん……」
いつぶり以来か,弱音を吐いた。
「山羊ちゃんのことは信頼しとるし,強さも頼りにしとる。そう簡単にやられへんことくらい,わかっとる。」
今まで抑えていた感情が雪崩のように押し寄せてくる。
「上手く…言えへんけど……,オレ,山羊ちゃんと離れたない………せやから………っ」
大粒の涙が頬を伝う。今のオレは,なんて情けないのだろう。一緒に行くという選択が安易に取れないことが悔しい。兄貴だったらこんな時,どうするだろうか。
山羊ちゃんはそんなオレを見ながらまた深い溜息をついた。だが,それはいつものようにただ呆れるだけのものではなかった。どこか緊張を含んだ,らしかぬ溜息だ。
「……わかったよ。大丈夫,僕は必ずまたここに戻ってくる。別に大して遠くまで行くってわけでもないからね。だから外であまりぼろぼろと泣かないでくれるかい?」
山羊ちゃんはそう言いながら首に手を当てて肩をすくめる。オレはまだ伝う大粒のしょっぱい涙を拭った。
「それまでしっかりカロリのこと見ておいておくれよ。戻ってきたら死んでました,なんて冗談,通用しないからね。」
オレは,山羊ちゃんを掴んでいた手をそっと離した。彼女の揺るがぬ確固たる意思を前にして,引き留め続けることができなかった。
手を離した代わりに,オレは山羊ちゃんをぎゅっと抱きしめた。
「ちょ,急になんなんだい…?!」
腕の中で何かギャーギャー言っているが,オレの耳はあまり正確に捉えていない。
大丈夫,山羊ちゃんはきっと,いや必ず,戻ってきてくれる。
オレは半ば強引に自分を安心させると,もがき始めていた山羊ちゃんからゆっくり離れた。離した後も何かぶつぶつと文句を言っていたが,オレの顔を見るなりまた溜息をついてオレに背を向け,目の前にある扉を開ける。
「それじゃあ,行ってくるからね」
山羊ちゃんは振り返らず外へ一歩踏み出した。
「山羊ちゃん」
その声に足を止めた。
「…行ってらっしゃい。待っとるからな。」
そして少しだけオレの方へ振り返ると,
「まったく,さっきかららしくないね。僕を誰だと思っているんだい?」
また呆れ口調で,けれど今まで以上に覚悟が込められた返事だった。再び背を向けると,扉の外に広がる世界へと歩み始めた。
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オレは山羊ちゃんの小さな背中を見つめながら,再び微々たる不安を抱いた。今まで頼もしく勇敢に見えていた山羊ちゃんの背中が,村の少女達と同じような,普通の少女の背中に見えたからだ。その小さな背中に背負われているものがあまりにも大きすぎる。
それなのにオレは,今ただ言霊を信じて待つことしかできない自分への|忸怩《じくじ》たる思いが膨らんでいた。