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解剖系書物
書肆ゲンシシャ/幻視者の集い より
https://x.com/Book_Genshisha
「はじめての死体解剖」アルバート・H・カーター
**帯**
実習期間の16週間は、ある意味では、一体の人体に対する長期の性愛行為――最も積極的な意味での解剖学的な死体愛好ないしは屍姦――なのであり、象徴的に拡大解釈すれば、その対象は一体に死体に限らず、すべての死体であってもおかしくないのだ。解剖に伴う肉欲的な親密さと比べたなら、性行為そのものまでもが狭隘な体験であるように見えてくる。
**手のひらに心臓を**
解剖学の本によれば、ことは至って単純であるようだ。心臓を摘出するには、心膜(心臓を取り囲む二層の筋肉組織)を切開し、八本の大血管が完全に切り離されているのを確かめてから、心臓を持ち上げ、胸郭から取り出せばいい。
だが、初めて解剖をする実習生には、なにもかもが複雑になる。込み入った部位で細かなメスさばきをする必要もあるし、好成績をあげたい欲もあるし、「ドジったら、オジャンだ」という不安もある。
そのうえ、この心臓はほんの数週間、ことによると数日前には、生きている人の体内で、温かく、そして強く脈打っていたのだという思いに捉われもする。だから、実習生は、のろい。担当の死体から心臓を取り出すのに、二時間かかる者もいるほどだ。
全部で四つある実習室の一つに、私はいる。学生の解剖実習を観察するためだ。室内には、六つの解剖台があり、どの台にも、ここ一年以内に死亡した人の死体が一体ずつ防腐処理を施されて、置かれている。各|解剖台《テーブル》には、通常、解剖学の実習生が二人つく。ただし、第四解剖台だけは別で、今はカール・ジェイコブス一人きりだ。カールこそ、誰よりも早く死体から心臓を丸ごと摘出できる早業師なのだ。
カールは血管を最後の一本まで切り離し、心臓をぐいと持ち上げて取り出すと、手のひらにのせて心臓を見つめたあと、勝利の身振りよろしく頭上に持ち上げる。
照明が眼鏡に反射し、高く振りあげた白衣の腕は、大見得を切っている白い柱だ。スリラー映画に出てくる狂った科学者さながらに「おおう」と吼えるカールは、いまだに人間のとわかる灰色がかった心臓に、今にも食いつこうとする怪物のように、わざとらしく凶悪な面相をして見せる。
解剖室にいる全員が、それを見つめている。手につかまれた心臓。実習開始以来初めて、心ゆくまで芝居がかった動作ができたのだ。きょうという日まで、実習生は、実習室の雰囲気と、そこでの異様な作業に気おされ、冗談一つ言えず、おどおどしていた。他の五チームは、カールの仕事ぶりの早さばかりか、たぶん、もの怖じしない態度まで、羨んでいる。
「アステカ族の神官そこのけだわ!」
と、奥から、女性の声。
「あのアステカ連中、名人だったんだよ。さぞかし、腕っぷしが強かったんだろうな」
ともう一人の学生が言う。
「肋骨と胸骨、その筋肉組織を全部ぶち抜いたんだから」
この学生は、自分が解剖していた心臓を身振りで示す。それは目も当てられないほどひどいありさまになっていて、学生は心臓を乱雑にすると同時にきちんと整えるという矛盾したことを今やっているのだ。
**肉屋になった気分**
(中略)~と言っていいほど大きい。直立できる人間の背骨ならばこそである。この学生の説明によれば、どのチームも、関節のところでばらばらにした人骨一組入りの「骨箱」を、家庭学習用、ないしはこの学生の場合のように、研究発表用に、借り出せるそうだ。これは初耳だった。他人の骨を借り出せるとは、まるで図書館の本も同然ではないか。
きょうはAチームにとっては二度目の実習である背部の解剖を|了《お》え、発表の準備を始める日だ。
Bチームのジョナサンとスティーヴが、次の実習の際に、私が見学するのを了承したという。実習室へ向かう途中の廊下で、イングリッシュ博士が私を捕まえ、その旨、伝えてくれた。きょうは部屋の隅にじっと座っていたくないから、四つの部屋をぶらぶらと見てまわる。
解剖台はどれも似たり寄ったり、二・三人の白衣の学生が、覆いかぶさるような格好で、切開をしている。(中略)私はただ動き回る傍観者となるつもりでここへ来たのだ。この男子学生と女子学生の二人は、背部の奥深くまで切り進んでいる。私がいかにもそれらしい白衣を着ているせいで、指導教官の一人と間違えられたのも無理のない話だ。
「いや、申し訳ないが、ただの見学者でね」
と、この学生たちを手助けできないことを、心底から済まないと思いながら、私は白状する。本来は、学生を手助けするのが私の義務なのだが、この大学の解剖室では、その資格はない。
「わたしは解剖学者ではないんだ」と、私は説明する。
気まずい沈黙があり、二人は私を見つめる。
「文学が専門でね、きみたちの作業を見学させてもらっているんだ。本を書く参考にしようと思ってね」
「はあ」と一人が言う。誰も次の言葉が見つからず、私は室内をさまよいつづける。
**(死体との)交際――エッセイ2**
裸体、隙だらけの姿勢、むき出しの性器。そういったものを見ると、ついセックスを連想してしまう。とりわけ肉体上の親近さを何が何でも性行為とみたがることの多い文化圈では、なおさらこれが著しい。
「誰かと寝る」ことが性交を意味するようになってしまった結果、本当に誰かと並んで寝るという優しく親密な行為を表わす言葉がなくなり、親密さという表現が他の意味をもっていることがつい忘れられてしまう。
解剖実習室は、室内の光景も臭気も、セックスを感じさせる場所ではない。老人の死体に性的興奮をおぼえるのは|死体愛好家《ネクロフィリア》だけだろう。それは考えただけでもぞっとする場面だ。
もちろん、死体に対する親近感というものはあるが、それは性的なものではない。私が見学している解剖実習室で作業をする生徒たち同士の、クラス内での親密さは深まる一方で、(中略)
男子学生だけで話すときには、同じクラスの女子学生の魅力について、突っ込んだ話が交わされる。ある女性実習生は、インターン勤務をしていた時の相棒が医学者として優秀秀であったばかりか、個人的にも「お熱い」男性だったと語ってくれた。
言い換えればセックスの話題も、御法度どころか堂々と実習室に入ってはくるのだが、それは実習生各自の「生の世界」から入ってくるものばかりで、少なくとも私の耳にした範囲内では、誰一人として死体が色っぽいとか、性欲を感じさせるといった調子で死体のセックス性について話をした者はいない。
とはいっても、実習室内にも種々の親近関係が見られ、そればありかエロスの気配さえ漂っているので、そのことにここで触れておくのも無駄ではあるまい。