公開中
救世主
〝いまさらな自信を持って言えます。今日までの人生、上出来でした。これにて、御暇いたします。〟
その手紙を読んだとき、僕は安堵したのだと思う。悲しみや驚きよりも先に、胸の奥で「やっぱり」という声がした。その感覚を、僕は長いあいだ否定してきた。友人が人生を終えようとしているのに、納得してしまうなど、あってはならないことだったからだ。
だが、否定すればするほど、感覚は輪郭を持って立ち上がってきた。
差出人の欄に記入はなかった。しかし、その文体、その過剰なほど整った言葉遣い、そして妙に丁寧な別れの仕方は、和希以外、あり得なかった。彼は、そういう男だ。
手紙が届いてから、数日が過ぎた。何事も起こらなかった。彼は死んでいなかったし、姿を消してもいなかった。いつも通り、街のどこかで息をしているように見えた。
だからこそ、僕は油断したのだと思う。
四日目の夜、彼に電話をかけたが、呼び出し音は鳴り続けるだけだった。翌日、部屋を訪ねると、郵便受けに手紙が溜まっていた。広告と公共料金の通知に混じって、あの手紙と同じ紙質の封筒が一通、未開封のまま残っていた。
それは、彼がもう戻らないことを、雄弁に語っていた。
警察に相談するという選択肢は、頭のどこかにあった。しかし、僕はそれを先延ばしにした。和希が「行方不明者」になることに、言いようのない抵抗があったのだ。彼は失踪するような人間ではない。そう思う一方で、彼ほど周到に消える準備ができる人間もいない、とも感じていた。
数週間が過ぎる頃には、不安は形を変えていた。彼はなぜ消えたのか、ではなく、彼はなぜ、消える必要があったのか、という疑念へ。
彼の部屋を整理していたとき、背後から声をかけられた。
「それ、彼の?」
振り返ると、女が立っていた。
いつからそこにいたのか分からない。音もなく、気配もなく、彼女は部屋の隅に立っていた。年齢は測れず、表情は穏やかだったが、どこか他人事のような距離感があった。
「山野です」
それが名前だと言われても、しばらく理解できなかった。
「和希さんの……元同僚、と言えばいいのかしら」
彼女はそう言って、小さく首を傾げた。
山野は、和希の過去について語った。僕の知らない彼の顔を、淡々と、しかし容赦なく並べていった。彼が若い頃、ある団体に所属していたこと。そこでは「救済」という言葉が日常的に使われ、人を助けることが義務であり、存在理由だったこと。彼はその中で、誰よりも真面目だった。
「彼はね、本気で信じていたの。人は、誰かに救われるべき存在だって」
山野は言った。
「でも、それって裏返せば、人は一人では生きられない、無力な存在だって決めつけることでもあるのよ」
和希は、多くの人を救ったらしい。少なくとも、彼自身はそう信じていた。しかし、救えなかった人の数は、救えた人の数よりも、常に多かった。
「彼は、失敗するたびに言っていたわ。『次は、必ず』って」
その言葉を聞いたとき、僕はようやく理解した。彼は希望を語っていたのではない。義務を自分に課していただけだったのだ。
救世主であろうとする義務。
数日後、山野は再び現れた。彼女は、まるで僕が彼女を待っていたかのように、自然に部屋に入り、和希の残したノートを手に取った。
「ねえ、考えたことはある?」
彼女は言った。
「もし救世主が本当に存在したら、この世界はもっと残酷になると思わない?」
救われる者と、救われない者。その線引きが、決定的になるからだ、と彼女は続けた。和希は、その残酷さに耐えられなかったのだろう。彼は、誰かを救うたびに、救えなかった誰かを裏切っているような感覚に苛まれていた。だから彼は、最後に一つの結論に辿り着いた。救世主は、存在してはいけない。
「彼はね、自分が消えることで、その証明をしようとしたの」
山野は、そう言った。救世主を待つ人々に、誰も来ない現実を突きつけるために。救われるという幻想から、人を解放するために。それが、彼なりの救いだった。山野が去ったあと、彼女が本当に存在していたのかどうか、確かめる術はなかった。彼女の名を知る者も、記録も、何も残っていなかった。
後日、警察から連絡があった。|嘉弥真 和希《かやま かずき》は生きている、と。別の国で、別の名で、何者でもない人間として暮らしているらしい。それを聞いたとき、僕は笑ってしまった。彼は死ななかった。だが、救世主としては、確かに死んだのだ。机の引き出しに、あの手紙を戻す。
〝今日までの人生、上出来でした〟
それは、人生を終える言葉ではない。誰かを救おうとした人生を、ようやく手放した者の、皮肉な自己採点だった。救世主は存在しない。それでも人は、誰かを救世主にしたがる。その欲望こそが、彼を追い詰めたのだと、今なら分かる。そして僕もまた、彼を理解したつもりになった時点で、同じ過ちをなぞっているのだろう。救われる必要など、本当は、どこにもなかったというのに。