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二話:密室の怪音
文芸部の部誌『菫の栞』に載せる短編小説の最後のページを書き終えて、璃音は達成感と共にペンを机に置いた。とは言え、小説はまだ未完成だ、先輩達に文章をチェックしてもらって、それから清書をして……、とにかく完成はまだ先だ。
軽く伸びをして辺りを見回す、部員達はそれぞれ、詩や小説を執筆している。
原稿用紙に鉛筆を走らせる音、椅子が軋む音、小説の内容を相談する声、部室は静かではないが、心地よい賑やかさに包まれていた。
文芸部は現在、三年生の神崎麗華と篠原咲、一年生の佐倉恵美、そして二年生の雨宮璃音の四人で活動している。この人数は華道部と同じで部員数少ない部活ランキング同率一位、ちなみに竜胆日向は文芸部の常連と言った立ち位置だ。
皆が部誌の締め切りに追われる中、部員ではない日向は暇をもて余していた、日向は文芸部ただ一人の一年生、佐倉恵美の原稿を読もうとしていた。
「だめです、まだ途中なので、あ、本当にだめなんです~」
「えー見せてよ、面白そうじゃん」
恵美は原稿用紙に覆い被さるようにして日向から書きかけの原稿を守っている、だが好奇心旺盛な日向にとってそれは逆効果だ。
部長の麗華と副部長の咲はその様子を微笑ましげに見つめている、彼女達にとっては後輩二人のじゃれあいにしか見えないのだろう。と言うより自分の作業から手を離せないと言った方が正しいのかも知れない。
助けてください、そう言わんばかりの後輩の視線が璃音に突き刺さる。
「……日向、これ読む?」
璃音はついさっき書き終えたばかりの原稿を自身の隣の席に置いた。
引っ込み思案で人見知り、璃音と似ている所のある後輩だからこそ、彼女の前では頼れる先輩でありたいと璃音は柄にもなく思うのだった。
「読む!」
日向は思惑通り、恵美から離れて璃音の隣の席に着いた。恵美の顔に安堵の色が見える。
「『旧校舎の亡霊』……これホラー系?」
日向の問いに、璃音は静かに頷く。
これは、私がとある卒業生から聞いた話です。そんな書き出しで始まる璃音の小説は菫女学院の旧校舎に出る女子生徒の幽霊の話だ。安直なタイトルだが『部誌に載せる小説のタイトルなんて安直なくらいでちょうどいい』という去年卒業した先輩のアドバイスを守った結果だ。
璃音の隣で黙々と原稿を読み進めていた日向だったが「ひぃっ……!」と肩を震わせて小さな悲鳴を上げた。
作者である璃音には日向がどのページを読んでいるか手に取るように分かる、そろそろ旧校舎の亡霊の正体が明らかになった頃だろう。
「ね、ねぇ、璃音……。この小説怖すぎない? 『誰もいない旧校舎から女子生徒の歌声が聞こえてくる』辺りとか……リアル過ぎて鳥肌が止まらないんだけど……」
日向は顔を上げて潤んだ瞳で璃音を見た。その表情は普段の天真爛漫な彼女からは想像できないほど怯えきっていた。璃音はそんな日向を見て少しだけ口元を緩めた。
自分が書いた物語でこれほど純粋に怖がってくれるのは書き手として嬉しいことだった。
ちなみにこの話は全て璃音の創作である、悲しいことに璃音に怪談話を語ってくれる友人は居ないし、璃音なりに調査した結果、菫女学院に怪談の類いの話は何一つ存在しなかったのだ。
「旧校舎にそんな秘密があったなんて、わたし知らなかったな……」
原稿の最初のページを眺めつつ日向が物語の余韻に浸っている、その時だった。
──ガタン!
壁の向こう側、使われていない空き部室から何かが倒れたような、あるいは落ちたような、大きく重たい物音が響いた。
「ひゃっ!」
日向が本物の幽霊を目撃した時みたいな大きな悲鳴を上げ、文字通り席から飛び上がった。
璃音は悲鳴は上げなかったがビクッと肩を震わせた。恵美は目を丸くして音のした方向を呆然と見つめている。
先輩二人も驚いた顔で顔を見合わせるが、少しばかり落ち着きがあった。
「ずいぶん大きな音だったわね。まさか、誰かいるのかしら?」咲が不安げに呟く。
「誰もいないはずよ。あの部室は、もう何年も使われていないわ」麗華は冷静に答えるが、その表情にも戸惑いの色が浮かんでいた。
「な、なに? ……もしかして旧校舎のアカリちゃん? 璃音が小説書いたから……」
日向は小説の内容を信じているみたいだった、しかし璃音は自身の小説がフィクションであると言わなかった、虚構と現実の境界が曖昧になるような小説にしたかったからだ。
その点で言えば璃音の試みは成功したと言っていいだろう。
そして、しばらくの間部室に沈黙が流れる、その沈黙を破ったのは日向だった。
「わたし、様子見てくる!」
日向は部室を飛び出し空き部室のドアへ駆け寄った。ガチャガチャとドアノブを回す音が聞こえる、空き部室は施錠されているようだ。
「ねぇ、璃音来て! 密室だよ密室!」
部室に戻ってきた日向は興奮した様子で璃音の腕を引く、密室だと分かっているならわざわざ隣の部室まで連れていく必要はないだろうと内心思いつつ璃音は日向に腕を引っ張られていった。それに璃音の中では先程の音についておおよその見当は付いていた。
「ただの風じゃないかしら」部室を出る直前、篠原咲はそう言った。
璃音は心の中で首を横に振る、それは違う、神崎麗花いわく隣の部室は何年も使われていないという、そんな部室の窓が開いているとは思えない、もし開いていたとしても校務員さんが見つけて閉めに行くだろう。
「ほら見て鍵がかかってる! やっぱり幽霊だよさっきの音」
部室棟のドアにはめ込まれているガラスは磨りガラスだ、中の様子は外から伺い知れない。
それでも部屋の明暗くらいは分かる、当然照明は点いておらずカーテンも閉まっていた、室内は薄暗い。つまり、太陽光のトリックは使えない。
「……幽霊、じゃない」
弱々しい声色とは裏腹に確固たる自信を持って璃音は告げる、もはや璃音にとって先程の怪音は怪音ではなく論理的に説明可能な物理現象に変化していた。
「結論を言うと、さっきの音は額縁が落ちた音」
言うべき事は言った、璃音は部室に引き返そうと踵を返す、しかし彼女は納得していないようだった、腕をしっかり掴まれ引き戻された。
「ねぇ、なんでそんなこと分かるの? 璃音は超能力者なの? ちゃんと説明してよ」
日向は璃音の腕を掴んだまま好奇心に満ちたキラキラ輝く瞳で璃音を見つめる。
例えば今ここで日向の腕を振りほどいて部室に戻る事も可能だ。しかし納得の行く回答を得るまでは日向に付きまとわれる、そんな予感がした、そしてその予感は現実になるだろう。
それならここで全てを説明をした方が後が楽だ。璃音はメガネのブリッジを指先で押し上げる。
「まず、聞こえた音の種類、ガタンっていうのはそれなりに重さのあって硬いものが落下した音。そして大きな音がした、これは音自体の大きさもあるだろうけど、私達の近くで鳴ったんじゃないかと思う、壁際とか」
音源が近ければ音は大きく聞こえる、日向が飛び上がるほどに。
「……そして、音の発生時、この部屋は密室だった。ドアには鍵、カーテンも閉まっている、外部からは人も風も光も入って来ない、それに地震も起きていない、だから私は物が自然に落下したと推測した」
日向は璃音の推理を一言も聞き漏らすまいと真剣そのものと言った表情で聞きいっている。
璃音は小さくため息をついた。内心では「そんな大したことじゃないのに」と思いつつも、日向の期待に満ちた瞳を前に、無視するのは難しかった。
「次は、なぜ額縁なのか、壁に掛ける重さのある物と言うと時計も該当する、でも時計と額縁には決定的な違いがある、日向何か分かる?」
璃音からの問い掛けに日向は驚いた様子で静かに首を横に振った
「それは固定方法、額縁には紐で吊るすタイプがある、でも壁掛け時計は金具で固定する物がほとんど。紐なら経年劣化で自然に切れても不思議じゃない」
璃音の口調はあくまで淡々としている。しかし、その声には微かな自信が宿っている。彼女の中では、パズルのピースが綺麗に嵌った瞬間なのだ。
何より幽霊より現実的で論理的だ。
「どう、これで納得した?」
「うん! やっぱり璃音ってすごいよ! 本当の探偵みたい」
日向が感嘆の声を上げる、ここまでストレートに誉められるのは慣れていないからか少しむず痒い。
「……日向、この事校務員さんに報告した方が良いと思う、学校の備品が落ちたのは確実だから」
「そっか! じゃ、わたし行ってくる」
ポニーテールを揺らして走っていく日向を見送りドアノブを回す、まだ額縁だと決まった訳じゃない、そう思いつつも文芸部の部室に帰還する璃音の表情はどこか晴れやかだった。
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その後、日向は校務員さんと二人で空き部室の様子を見に行ったらしい、校務員さんの合い鍵で空き部室のドアを開けるとそこには床に落ちた紐の切れた額縁があり璃音の推理は正しかったと証明された。
日向はその事を嬉しそうに篠原先輩に話している、自分の事でもないのにどうしてそんなに喜べるのか不思議に思いつつ璃音は机の上の一口チョコレートに手を伸ばす。
「雨宮さん、原稿のチェック終わったわよ」
チョコレートを取ろうとしたその時、神崎麗花が璃音に声を掛けた。
「はい、ありがとうございます」
「旧校舎の描写がリアルでとても良いわ、実際に行って書いたのかしら?」
「はい」
「よく旧校舎の鍵を借りられたわね?」
「生徒会長も一緒でした」
「なるほど、楓も一緒だったのね。ところで、この小説の主人公って竜胆さんがモデル?」
「──はい、……よく気付きましたね」
麗花の言葉に目を見開き、声のボリュームを落として囁くように璃音は答える、別に聞かれたらマズイ話ではないが無意識にそうしていた。
「だって竜胆さんの特徴をよく捉えているもの、活発で行動力があって誰にでも優しいところとか」
璃音は小さく頷いた。ただ、怪奇現象の恐怖に好奇心が勝りそうな日向はモデルに最適だった、理由はただそれだけ、それに日向の特徴をそのまま文章に落とし込んだわけではない。
そう思っても口には出さず、「そうかもしれません」とだけ答える。
「でもね」麗花は微笑みながら続けた。「この小説の主人公は、ただ竜胆さんを描いただけじゃない。あなたの目を通して見た竜胆さんよ」
璃音の胸に微かな熱が灯った。麗花の言葉が、自分の内面をそっと撫でたような感覚。それは不快なものではなかった。むしろ、どこか心地よかった。
「今、わたしの話してたでしょ、何の話?」
二人の会話に割り込んできた日向に一言「なんでもない」と言って璃音は原稿を受けとる。
「……これから原稿を清書するから静かにしてて」
「ねぇ璃音、“せいしょ”って何?」
日向の口にした質問に璃音は大きなため息を漏らす。
今までの璃音なら「そのくらい自分で調べて」と素っ気なく返していただろう。でも今は不思議と面倒くさいとは思わなかった。
「清書って言うのは文章の──」
日向の質問に答えつつ、璃音は再び原稿にペンを走らせた。