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第10話:繋がれたバトン、残された時間
深い眠りから覚めた|新《あらた》の目に飛び込んできたのは、机に置かれた一冊の手製の本だった。
看護師たちが、新の書き上げた原稿を丁寧にコピーし、表紙をつけてくれたのだ。タイトルは、新が最後に記したもの。
『今、この瞬間の宝物』
「新さん。……|陽葵《ひまり》ちゃん、意識が戻りましたよ」
松本医師の声に、新はゆっくりと顔を向けた。
「……本当、ですか」
「ええ。先ほど、看護師があなたの物語の結末を読み聞かせました。彼女……笑っていましたよ。『新太くんたち、よかったね』って。それで、お腹が空いたからゼリーが食べたい、と」
新の目から、熱いものが溢れた。
自分が生み出した言葉が、誰かの生きる力になった。|永莉《えり》と一緒に夢見た「未来」は、自分の子供という形ではなく、陽葵という小さな命を繋ぎ止める「希望」という形になって実を結んだのだ。
「先生……。僕に、最後のわがままを言わせてください」
新は、窓の外をじっと見つめた。
そこには、一年前からずっと避けてきた、けれど一分一秒たりとも忘れたことのない「あの場所」へと続く道があった。
「……永莉が亡くなった場所へ、行かせてください。……今の僕なら、あの日、彼女が何を伝えたかったのか、わかる気がするんです」
「今のあなたの容体では、外出は命を削ることになります。……病院に戻ってこれない可能性も、ゼロではありません」
「わかっています。……でも、僕は『今』、行かなきゃいけないんです。……明日があるかどうかわからないからこそ、今、彼女に会いに行きたいんです」
松本医師は、長く重い沈黙の後、静かに新のカルテを閉じた。
「……わかりました。明日の午前中、救急車と看護師を同伴させる条件で、外出許可を出しましょう」
その日の午後。新は病院の談話室にある小さな図書コーナーへ、車椅子で向かった。
そこには、新が書いた本が置かれていた。
陽葵だけでなく、他の子供たちや、病に怯える大人たちが、その本を手に取っている。
『いつか失うとわかっていても、今、隣にいる人の手を握ってください。その温もりこそが、私たちが生きた証なのですから』
本のあとがきに記したその言葉を、新は心の中で反芻した。
病室に戻り、新は両親に電話をかけた。
「明日、あそこへ行ってくるよ」
電話の向こうで、母が言葉を詰まらせる。父が「……わかった。俺たちも行く」と短く言った。
新は、静かに目を閉じた。
明日の今頃、自分はどこにいるだろうか。
一年前は、あの日を「すべてが終わった日」だと思っていた。
けれど今は違う。
あの日から始まった、苦しくて、残酷で、けれど誰よりも深く「今」を愛した自分の物語の、それが真の完結へと続く道なのだ。
夜の帳が下りる中、新は永莉の声を聴いた気がした。
『新くん、待ってるね』
新は微笑んだ。その顔に、もう迷いはなかった。
🔚