公開中
ラベンダーの香り。
「ねえ、田代くんだよね」
元カノの匂いがふんわりじっくり肺に入った気がして、殴るように自分の鼻を掻いた。
高そうで人工的な匂い。
あの頃の俺は大好きだった。
「舘山さん……だよね?」
講義室の入口。
黒縁メガネのおとなしそうな女の子が立っている。
元カノの匂いは、気のせいだったかもしれない。
「高校ぶり……だね」
はじめましての挨拶をしたのはもう三年前。
それからまともに喋った記憶はない。
レンズの奥に、潤った黒目がたたずんでいた。
「急にどうしたの?」
舘山さんは、ずっと床とにらめっこをしている。
サラサラの黒髪を落として、俯いていた。
床は、俺たちのところだけやけに汚れている。
俺らの間には、沈黙が立っていた。
授業終わりで空っぽの小講義室。
嫌なほど黒ずんだホワイトボード。
清々しいほどに曇った窓の外。
まだ、舘山さんの匂いが気になる。
「ねえ、匂い、気になるでしょ」
舘山さんは、少しかがんで俺に聞いた。
香りも舘山さんと一緒におりてくる。
俺と視線を合わせて、首を傾げた。
ぎこちない笑顔が、薄く張り付いている。
「ま……いい匂いだね」
舘山さんは、不服そうな顔をしてまた下を向いた。
割れてしまいそうな肩に手を出しかけて、すぐ引っこめた。
ほんの少しだけ、舘山さんの体温を感じた。
舘山さんは、俺のものじゃない。
沈黙は、俺が震えてもまだどいてくれなかった。
「ラベンダーかな」
舘山さんは、まだ下を向いている。
シリーのNo.51。
彼女だった人の、大好きな香水。
俺の本棚には、未だに誕生日プレゼントにするはずだった51番が隠されている。
俺はもう、隠し場所も覚えていない。
「シリーってところの香水なんだけどね」
温かい声が俺を後ろに押しやった。
舘山さんの頭を撫でる冷たすぎる風が、記憶を運んでくる。
「ねえ、李さんのこと考えてるでしょ」
李。
り。
平たい声に、俯くしかなかった。
首から肩、肩から肘、肘から指へと冷たい血液が流れていった。
額に脂汗が湧いてくる。
「なんで|衣玲那《えれな》と付き合ってたって知って……」
「ん、気づいちゃった」
間髪入れずに答えた舘山さんに思わずのけぞってしまった。
そっか、としか言えず、沈黙よりも重く淀んだ空気が、容赦なく俺を凍らせた。
「香水」
舘山さんは独り言のように呟いて、一歩寄ってきた。
肩のあたりに垂れた髪の毛から、51番の匂いがする。
青草を甘く煮たような鼻に抜ける匂いは、俺の服からもなんとなく漂っていた。
「棚の下から二番目、右から三冊目のうしろ」
聞いたら思い出した。
シリー51番の隠し場所。
でも……。
氷を鼻から吸い込んだような苦しさにむせてしまった。
「あ、李さんには話したよ」
|衣玲那《えれな》の名前を出してきた。
少しかがんで、口だけ微笑んだ。
「残念なことになっちゃったけどね」
急に、|衣玲那《えれな》の香水の匂いを思い出した。
目の前に同じ匂いをまとった女性がいるのに、その匂いは確実に違った。
舘山さんの匂いには、棘がある。
「ねえ、私と付き合ってよ」
俺は全身の神経が途切れたように固まってしまった。
匂いだけで、顔も声も唇の柔らかさも思い出せる。
そんな元カノを、忘れられるわけがない。
「ごめん、やっぱり俺は|衣玲那《えれな》なんだ」
もう付き合えないなんて知っている。
|衣玲那《えれな》はもう、幸せになった。
でも、俺は|衣玲那《えれな》のラベンダーの香りのほうが好きだ。
背中も濡れてきた。
恐る恐る顔を上げたが、舘山さんは下を向いていた。
「ふうん、やっぱり私じゃだめなんだね」
口を膨らませて、舘山さんは背中に両手を回した。
舘山さんは手ぶらではなかった。
「ごめん、せっかく」
――――――
「これで、私が一番最後だね」
手を伸ばしたが、急に右腕が軽くなった。
舘山さんは、俺の右腕を持っている。
悶える俺に構わず、笑いながら自撮りしている。
「ほらほら、田代くんピースはぁ?」
はいピース、と俺の腕を一本持ってピースを作った。
酸っぱい匂いが、肩から広がってくる。
「また会おうよ」
体中に甘い毒を振りまいて、講義室から去っていった。