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灰は灰に、過去は煙に
煙に巻く(物理)
リクエストありがとうございました!
いずれさらに後日談的短編も書きたいです。そうすると厳密には一話完結になりませんが、許して……。
※この小説には飛び降り(未遂です)描写があります。きっかけがろくでもないだけの純愛(?)です。苦手な方はご注意ください。
あっさりとフェンスを越えられた。眼下の景色にジェットコースターで見たことがあるような、そんな既視感を覚える。視線を少し上げれば、ビルの隙間から夕焼け色になった観覧車が、はっきりと視認できた。今にも楽しげな幼児の声が聞こえてきそうだ。
あのころは、楽しいことしか見えなかった。
目を閉じれば、過去に撮ってもらった写真たちが浮かび上がる。走馬灯、それか現実逃避。こうでもしないと、わたしの脳は地面に叩きつけられるまでの数秒を耐えられないのかもしれない。しかし、体も心も壊されるよりはマシだと信じてわたしはここにいる。
これはそう、少しばかり前向きで、積極的な尊厳死だ。催眠をかけるように心の中で唱えて、また一歩前に出た。高所特有の風が体温を奪い去っていく。真下を直視はできない。
錆びたフェンスから片手だけ手を離す。伸ばす。思い切り、最後の酸素を吸おうとして、咽せた。
苦い。焦げ臭い渋さが鼻の奥をつき、思わず体を反転させた。生理的な涙をこらえてフェンスに張り付く。いったい、何が起きたのか。
「うそ」
今の今まで目を瞑っていたので気が付かなかったが、ビルの壁を伝うように、細く黒々とした煙が立ち昇っている。風が少しおさまったので、真上にいるわたしにも煙が届いたのだろう。
おそらくは火事だ。燃えているのだ。本能が警鐘を鳴らす。フェンスを乗り越え、塾のカバンを拾い上げた。急いで屋上から立ち去ろうとするところで、片足を引き摺る。
何も変わらないじゃないか。どうせここで死ぬつもりだったのだから、飛び降りて死のうが火事で死のうが、死因が変わるだけじゃないか。
飛び降り自殺では降りた先で人を押しつぶすこともある、らしい。他人に迷惑をかけずに、静かに死ねるのなら、その方がきっと良い。死んでからも罵声を浴びせられるのなんてごめんだ。
体が、精神がゆるやかに弛緩する。そのまま大の字になって、黒いアクセントが添えられた夕暮れの空を眺めた。
ああ、わたしの人生、なんてついてないんだろう。のけものにされて、たくさん傷つけられて、家族からも見捨てられて、最後の最後で火事にも遭う。ちゃんと死ねそうなのが不幸中の幸いだ。ここまでの出来事があれば、いつかの来世は、まっとうで幸せなわたしになれるかな。
カバンを抱きしめ、甲高い悲鳴とパチパチと爆ぜる炎の音を子守唄にする。何も、考えなくて良い。
「きみ、どうしたの」
1分も経っていない、だろうか。
ゆっくりと目を開けると、わたしを誰かが覗き込んでいた。まさか消防士、だろうか。目を擦って、その人物を見つめた。
服装が随分とラフだ。黒いコートにマフラー、ジーンズというどこにでもいそうな出たちだった。声からして男性だ。私のことを助けに来た普通の人、なのか。
普通の枠を越えた端正な顔立ちだが、心配や困惑の表情を浮かべていない。わたしを何度も傷つけてきたからこそ分かる。これは絶対に、好奇の目だ。
「間抜けな格好で転がってるけど、怖くないの。火事だよ」
「まぬ、け」
急いで起き上がり、制服のスカートの裾を払って直す。
「……別に怖くないです。間抜けでもないです!」
「じゃあどうして逃げないの」
「楽に死ねるから、です」
さらに目を大きくして、彼はわたしを眺めた。
「そっか、死にたいのか。あー、初めて会ったな、そういう子」
向こうはなぜか、ふわりと微笑んだ。火事場でなければ、素直に綺麗な人だと思えたのだろうか。小さな違和感を声に出す。
「初めて?」
「うん、初めて。みんなみんな、『死にたくない』とか、『助けて』って、よりによって俺のこと見て泣いてたんだよ」
「じゃあ、この火事はつまり」
その先をゆっくりと、呟いた。
「あなたが起こした」
「そう。そうなんだよ。簡単だったよ?セキュリティガバガバで古かったからね」
青年、かつ放火犯は満面の笑みを浮かべる。どうやら正解のようだ。
「なんならこの前ニュースになってたショッピングモールの火事。あれも俺。いや、好きなんだよね。こうして上から、結果を眺めること」
連続、がさらに付け足された。こんな爆弾発言を、見ず知らずの人間にしてしまっても良いのだろうか。どうせわたしは死ぬ命だから、気にしていないのか。
「で、怖くないの?俺のことも、火事も」
「……やっぱり、怖くないです」
不本意に傷つくこと以外に、恐怖なんて感じない。今のわたしはどうかしているけれど、嫌ではない。むしろ爽やかに終われる気がした。吹っ切れてしまった。
「ありがとう、ございます。飛び降りるより楽に済みました。火事なら仕方ない、ってみんな思ってくれるだろうし。貴重な経験ができたなあ、なんて」
だから、こちらも微笑んで見せた。久々にちゃんと笑顔を作れた気がした。青年は微動だにしない。美形なのも相まって、彫刻のように見える。
やがて、青年はゆっくりと息を吐き出した。それは笑いへと転じて、しばらく青年は口を押さえる。
「ちょっと聞くけど、家族は?」
一度失敗したから、今度こそは良い学校に。今度こそは、恥ずかしくない娘に。だから塾に入れて、真面目に勉強させる、らしい。
「塾で自習してくる、って言ってあります。勉強さえしてれば、何も言われませんから」
「友達は?」
「……いません」
ノリが悪くて、運動も下手で、いつも教室の隅っこで勉強してる。絶対に、反撃してこない。だから、ストレスは全部わたしにぶつけても大丈夫、らしい。
「これ以上変なこと聞かないでください。もう、気にしなくていいことだから……」
なぜか青年はわたしの人間関係を聞いてきたので、思わず言葉が口を突いて出た。せっかく嫌なものを忘れられたのに、掘り返さないでほしい。
「ん、分かった」
わたしの鬱屈とした気持ちなんて知りもしない青年は、何食わぬ顔で付け足した。
「じゃあ、一緒に終わらせよっか」
「へ?」
そこからの身のこなしは、とても軽かった。いとも簡単に私を持ち上げ、わたしの胸元のリボンや上着を拝借すると、颯爽と屋上のドアを開ける。しかも俗に言う、お姫様抱っこというやつだ。運びやすいのだろうか。
「離して、なんでわたし」
「いいからしっかり掴まって、煙吸わないように口押さえてて。あと、カバンも使うから持っといて。まだ間に合う」
青年の力は、思っていたよりもずっと強かった。わたしが抵抗してもびくともしない。大人しく連れて行かれるほかないようだ。死期が少しだけ早まっただけなのだから、問題はないと言い聞かせて、体に掴まる。
階段を駆け下り、下のフロアまで辿り着くと、鮮烈な赤い炎が火花を飛ばしていた。わたしには逃げるルートが思いつかなかったが、青年は隙間を縫ってすいすいと進む。いつも過ごしていた塾のテナントにも炎が侵入していた。救助を待つすすり泣きと怒号たちが聞こえて息をのむ。生々しい恐れだった。
「忘れないうちにやっとかないと」
そうして、彼はわたしが先ほどまで身につけていたものを投げ捨てた。炎に吸い込まれ、赤かったリボンはじゅわりと黒く染まる。カバンも奪い取られて、塾の入り口まで転がっていった。
「なにを、してるの」
「こうすればきみは死んだことになる」
ついにその時が、来たようだ。飛ばされる熱を恐れつつ、わたしはその腕から離れようとしたが、付け足された一言で振り払えなくなる。
「危ないから暴れないの、ほら、行くよ」
「でもわたし、ここで死ぬんじゃ」
「きみ『として』の人生を、綺麗さっぱり燃やすんだよ。ひとことも殺すなんて言ってない」
「な」
「ほら、それ以上喋らない。めちゃめちゃ苦しいから、煙吸うのはおすすめしないよ」
苦しい。その言葉に怖気付き、おとなしく口を覆った。勇気が、炎にかき消された。
「うん、えらいね」
わたしをまっすぐ見て、確かに放火魔は褒めた。今までかけてもらったことのない、やさしい声だった。
それを皮切りに、ビルからの脱出を再開する。あれよあれよという間に1階まで辿り着く。ほぼ毎日このビルに通い詰めるわたしも知りえなかった裏口のドアをこじ開け、外に出た。清々しい冬の空気が、わたしの鼻腔を洗い流すようだった。
表側からは騒々しい人々の声がするものの、裏口は静まり返っている。わたしは丁寧に地面に下ろされた。
「わたしは、どうなるんですか」
「ろくな暮らしじゃなかったんでしょ。だったら、一緒に過ごしたがマシじゃないかな。あ、もちろんご飯も飲み物もお風呂も用意するよ。とにかく一緒に暮らしたいな、って」
さらりと、とんでもないことを言った。
「でも、わたしたち今日が初めてですよね!?」
「そうだね」
「なら、どうして……」
「うーん、一目惚れってやつ?殺せる気、しなかったんだよね」
あまりにも常軌を逸している。容量を超えた焦げ臭さと出来事とが、わたしの脳を揺さぶる。
「だってかわいかった。きみの、笑顔」
あの時、微笑んでしまったからだった。
断らなければ、今すぐに帰って、通報しなくては。良心が叫び、肩に力が入るも、わたしは無視したくなってしまう。
もうどうだって構わない。わたしをわたしとしてまっすぐに見てくれるなら、きっとそれでいい。とうにわたしも、常軌を逸している。
「一緒に帰ろう」
だから、素直な告白を受け入れた。
「はい」
帰ったら何をしたいかな。お腹が空いたから何か食べたいし、ゆっくり入浴したい気もする。久しぶりに、思う存分娯楽も楽しめるかもしれない。お互いのことも、知りたくなった。
ああ、早く帰りたい。手を引かれて、高揚感のまま、わたしは歩き出す。
「あなたの名前は?」
「俺は灯火。火を灯すって書いて、トーカ」
たぶん彼の親は当時、何も知らないだろうが、つい苦笑してしまう。
「きみは」
「わたし、は」
しかし、自分の名前がうまく出てこなかった。今となっては負の遺産の象徴だった。
「……無理に言わなくていいよ、ゆっくり決めればいい。だってもう焼けちゃったからね、前のきみは。俺ときみの、ひみつ」
「ひみつ」
口に出して繰り返せば、次第に馴染む。不快ではない。
「そのうち新しい戸籍も買えばいいんだよ」
「随分と簡単に言いますね」
「何回火つけてると思ってるの、そういうつながりだって持ってるよ」
「あはは、すごくろくでもない」
そう言って、2人で笑い合った。傍目には普通に見えるけれど、これは2人のひみつなのだ。
「決めました。わたしのこと、ミズキって呼んでください」
「お、その心は?」
「水だから」
「意外ときみもろくでもないね」
「これでおそろい、です」
ひとまわり大きい手が、あまりにもやさしく、ぬくかった。