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呼吸を捧ぐ
煙草の吸いすぎで倒れたクリスと、クリスに片思い中のニックの話。
病院の廊下は、生と死が交差する場所特有の、鼻をつく消毒液の匂いに満ちていた。
ニックは、自分の心臓の音が耳元で鳴り響いているのを感じていた。ドク、ドクと早鐘を打つ鼓動は、走ってきた疲れによるものか、それとも恐怖によるものか。
視界の端に映る、無機質な白い壁と、点々と配置されたベンチに座る人々が、今のニックにはひどく鬱陶しく感じられた。誰もが自分の痛みや不安に閉じこもり、隣で誰かが崩れ落ちそうなことなど、気にも留めていない。
「……っ、はぁ……」
日々の業務で蓄積された疲労が、鉛のように足に絡みつく。それでもニックは、一刻も早くこの閉塞感のある空間を駆け抜けたかった。
脳裏に焼き付いているのは、つい一時間前の光景だ。
オフィスで、いつものように淡々と書類を整理していたクリスの横顔。それが突然、苦しげに歪んだ。彼は言葉を失い、胸元をかきむしるようにして、ガタガタと音を立てて椅子から崩れ落ちた。
酸素を求めて喘ぐその唇は、瞬く間に血色を失い、紫がかっていく。
同僚として、あんな惨状を見て放っておけるはずがない。
だが、ニックを突き動かしているのは、そんな理性的な義務感ではなかった。もっと濁った、それでいて純粋な、独占欲に近い恋心だ。
「君がいなくなったら、俺はどうすればいい」
そんな、本人には決して言えない身勝手な祈りが、ニックを病室へと急がせていた。
「無事でいろよ……頼むから」
案内された病室の番号を確認し、ニックはその前に立ち止まった。
目の前にある銀色の取手は、冬の朝のように冷え切っている。ニックは一度、深く息を吐き出し、乱れた呼吸を整えようとしたが、指先の震えは止まらなかった。
意を決して、ドアを勢いよく開ける。
「クリス!」
悲痛な叫びと共に飛び込んだニックの目に映ったのは、あまりにも拍子抜けするほどいつも通りの、冷ややかな男の姿だった。
クリスはベッドの縁に腰掛け、開け放たれた窓の外を見つめていた。その指の間には、細い煙草が挟まれている。
白いカーテンが風に揺れ、そこから立ち昇る紫煙を部屋の奥へと押し戻していた。
「っあ……ニックか。見舞い、どうも」
クリスは、まるで自席でコーヒーでも飲んでいるかのような平然とした顔で、ニックに視線を向けた。だが、直後に激しい咳き込みが彼を襲う。
「ケホッ、……ッ」
苦しげに肩を揺らしながらも、彼は手元の煙草を窓枠に押し付けて消した。灰がパラパラと風に舞い、クリスは気まずそうに目を逸らした。
ニックは、あまりの光景に思考が停止した。
酸素吸入器に繋がれ、蒼白な顔で眠っている姿すら覚悟していたというのに。
「……ああ、見舞いだよ。礼はいらないさ。それよりも……」
ニックの声は、困惑と怒りが混ざり合い、ひどく掠れていた。
「病人って、運ばれた直後に煙草を吸うものだっけ。さっきまで死にかけていた人間がすることじゃないだろう」
クリスは窓の外、遠くの街並みを眺めたまま、自嘲気味に口の端を上げた。
「……まあ、病人でなくとも吸うもんじゃねぇのは確かだな」
吐き出された言葉は、どこか遠い場所から響いているようだった。
ニックは信じられないという思いで、一歩、歩み寄った。
「クリスがどうして倒れたのか、正確な診断はまだ知らないけどさ。俺が君の普段の様子を見るに、不摂生と……その煙草の吸いすぎじゃないかと思うんだ。なんで、そんな死にに行くようなことを、平気でするんだ?」
ニックの叫びは、広く冷たい病室に空虚に響いた。
クリスを責めたいわけではない。ただ、彼が自分の命を削り続けていることが、耐えられなかった。
しかし、振り返ったクリスの瞳を見て、ニックは息を呑んだ。
そこには、何もなかった。
悲しみも、苦しみも、あるいは生への執着も。ただ、底の抜けた器のような、救いようのない虚無感だけが澱んでいる。
「……別に、俺は死んだっていい」
クリスは淡々と言った。
「吸いたいから吸った。それだけだ。理由なんて、それ以上も以下もない」
「死んだっていいって……クリス、本気で言ってるのか?」
「ああ。俺がどうなろうと、俺自身はどうだっていいんだよ。生きる意味なんて、最初から持ち合わせてない。……この世に、俺がしがみつかなきゃいけない理由なんて、どこにもないんだ」
その言葉は、冷たい刃となってニックの胸を貫いた。
隣で共に過ごした時間も、時折交わした言葉も、自分にとっては宝物のような記憶だった。だが、クリスにとっては、それら全てを投げ打っても構わないほど、この世界は無価値なものだったのか。
ニックは拳を固く握りしめた。
こみ上げてくるのは、やるせなさと、どうしようもない憤りだ。
悶々とした感情が胸の中で渦を巻き、ついには堰を切った。
「……でも。俺は、死んで欲しくないよ」
絞り出すような、けれど地を這うような重い声。
クリスの眉が、初めてピクリと動いた。
「……ニック?」
「俺は我儘だからさ。クリスには死んで欲しくないって、はっきり言うよ。……クリスが自分のために生きられないって言うなら、俺のために生きてくれないかな」
ニックの瞳は、これまでにないほど強く、真っ直ぐにクリスを射抜いていた。
そこにあるのは、同僚としての情愛を越えた、剥き出しの執着だ。湿った熱を帯び、今にも溢れ出しそうな切実な願い。
「俺のために、呼吸をしてくれ。俺のために、明日もその隣にいてくれ。……それじゃ、ダメか?」
対するクリスは、依然としてポーカーフェイスを崩さなかった。
氷細工のような無機質な表情。ニックの情熱的な言葉に対しても、驚きを露わにすることはない。
だが。
クリスの指先は、隠しようもなく震えていた。
つい先ほど窓枠に押し付けた煙草の灰が、震える指からこぼれ落ち、病室の床に小さく散る。
心臓が、肺が。
倒れた時とは全く違う、激しく、暴力的なまでの拍動を繰り返している。
冷え切っていたはずの体の芯から、ニックの言葉という火種によって、熱がじわりと広がっていく。
クリスは、このままニックの瞳を見つめ続けることができず、逃げるように視線を窓の外へ戻した。
自分の投げやりな感情が、内側から激しく揺さぶられていることを悟られたくなかった。
「……あんた、本気かよ」
ぶっきらぼうに返したその声は、震えを隠すために低く抑えられていたが、先ほどまでの氷のような冷徹さは消えていた。
そこには、自分を必要だと言い切った男に対する、戸惑いと、否定しきれない熱が確かに混じっていた。
ニックは、窓の外を向いたままのクリスの背中を見つめ、少しだけ、その距離を縮めた。
病室に立ち込める煙の匂いは、もうすぐ、春の夜の風にかき消されようとしていた。