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くけ
アビス・マーティン
ロンドンの賑やかな大通り。
今日の私は、いつものカチッとした伯爵の礼服ではなく、仕立ての良い、だけど動きやすい街着を身に纏っている。
もちろん、隣にいる彼女もメイド服ではなく、一風変わった上質なドレス姿だ。
だけど、そのコーラルピンクの髪とカーネーションのような紅い瞳は、人混みの中でも嫌でも目を引いてしまう。
「リリー。あまり急ぐと転んでしまいますよ。」
「大丈夫、大丈夫! メイベル、見て、あのお店! すっごく可愛い!」
いつもは「お嬢様」「侍女頭」という見えない境界線があるけれど、今日だけはただの「リリー」と「メイベル」。
お忍びのお買い物は、息が詰まるような商談の何倍も楽しい。
「ねぇ、これなんかどうかしら?」
私が指差したのは、ガラスケースの中に並んだ、綺麗な細工のブローチ。
私の瞳と同じ、深い不思議な紺色の石が嵌め込まれている。
「あら、素敵な色ですね。リリーの瞳によく似合っています。」
「ふふ、これね、メイベルにプレゼントしたいの。いつも頑張ってくれているから。」
「……! 私に、ですか?」
メイベルの紅い瞳が、一瞬だけ驚きで丸くなる。
いつもは悪魔として余裕たっぷりに微笑んでいる彼女が、こういう時に一途な乙女のように本気で照れるのが、たまらなく愛おしい。
「何ですか、その顔。……私じゃ、足りない?」
この前、馬車の中で言われた言葉を、そのままそっくり悪戯っぽく返してあげる。
「~~っ! いえ、そんなことは……! 勿体無いくらい、嬉しいですわ、リリー。」
顔をほんのり赤くして、嬉しそうにブローチを胸元に当てるメイベル。
それを見て、私の胸の奥の、あのドス黒い記憶で開いたはずの「心の穴」が、じんわりと温かいもので満たされていくのを感じる。
誰も私を愛してくれなかった。
異形だと罵られた。
だけど、今私の隣でこんなにも愛しそうに微笑んでくれる存在がいる。
それだけで、私は救われているんだ。
「あ、そうだ。あっちの帽子屋さんも行こう!」
「ええ、どこへでもお供いたします。」
「……おや?」
ふと、メイベルが人混みの奥を見つめて、妖しく目を細めた。
「どうしたの?」
「いえ、何でもありませんわ。……ただ、少し離れた路地裏で、黒い燕尾服を着た不躾な『野良犬』が、こちらを観察しているようでして。」
「ん?燕尾服?」
「気にしないでくださいな、リリー。もしこれ以上私たちの逢瀬の邪魔をするようなら、その首をへし折って、ロンドン橋から叩き落として差し上げるだけですから。」
「あはは、メイベルったら冗談が過激だなぁ。」
「フフ、冗談ですわ(本気ですけれど)。」
(……いや、これ絶対ファントムハイヴの執事に目をつけられてるじゃん……。お忍びなのに全然隠せてねぇ……。 by.たまたま荷物持ちで付いてこさせられたいつもの操縦士)