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「葛葉だから」
夜桜
春の風に乗って、桜の花びらが散っていく。
私は職員室の窓から、外を見渡していた。
教員になって3年目。
これまでずっと、特別支援学校に勤めてきていたが、
この春の異動で初めて通常学級に配属された。
少人数ではなく、一クラス30名ほど。
担任業務もほぼ初。
正直、不安がないと言ったら、嘘になる。
「緊張してます?」
隣の席の先生が、資料を整理しながら笑った。
「まぁ、それなりに」
そう言って、その先生は優しく笑う。
「特支から来ると大変ですよね。」
「大人数になりますし、お互い、頑張りましょうね。」
その言葉に、少しだけ緊張がほぐれる。
「ありがとうございます。」
時計を見ると、
ホームルーム開始まであと10分。
私は出席簿を抱えて立ち上がった。
『今日もいい日になりますように』
心の中でそう唱えて、教室へ向かう
場所が間違っていないか、
何回も確認する。
よし、ここで合ってる。
私は一度深呼吸をしてから、教室に入った。
「おはようございます。」
教室の視線が一斉にこちらを向いた。
三十人以上の生徒たち。
想像していたよりも、その数はずっと、多く感じた。
それでも、返って来た「おはようございます」の声に少し安心する。
私は教壇に立ち、黒板に自分の名前を書いた。
「今日からみなさんの担任になります。」
「八雲 怜と言います。玲先生とか、自由に呼んでください。」
「玲先生!」
生徒たちが一気に名前を呼ぶ。
不思議な感覚だ。
「まず、簡単に自己紹介します。」
そう言った時だった。
ガラっと後ろの扉が開く。
教室の空気が
振り返ると、
そこに立っていたのは銀髪の男子生徒だった。
ネクタイは緩んでいて、片手であくびをしている。
けれど、
私が驚いたのは彼ではなく、周囲の反応だった。
「おはよー」
「今日、意外と早いね」
「あ、珍しい。」
誰も驚いていない。
それどころか、完全に受け入れている。
まるで普段の日常の様な挨拶だった。
銀髪の生徒は、そんな人たちには目もくれず、自分の席に向かう。
「おはようございます。」
私が声をかけると、彼は足を止めた。
ゆっくりとこちらを向く
赤い瞳と目が合った。
「......あ?」
教室が静まり返る、
みんな私の様子を伺っている。
「名前は?」
「......―ずは」
「ごめん、もう一回言ってくれる?」
銀髪の生徒は小さく舌打ちをして口を開く。
「くーずーは。葛葉。」
「教えてくれてありがとう。葛葉君ね。」
「葛葉君、遅刻ですよ。」
「そうっすね。」
「理由はありますか?」
「寝坊」
余りにも迷いのない返答だった。
教室のあちこちから笑い声が漏れる。
葛葉、本人は悪びれる様子もない。
私は手元の出席簿に目を落とした。
席順と名前を照らし合わせる。
窓側の最後列。
葛葉。
「分かりました。席についてください」
「はーい」
気の抜けた返事をして、彼は席へ向かう。
周囲もすぐに日常に戻っていった。
まるで、何もなかったかのように。
私は少し違和感を覚えながら、
自己紹介を再開した。
「名前は、八雲怜です。好きな食べ物は――」
「ここでクイズです――」
ホームルームが終わって、生徒たちが次々と教室を出ていく。
その中に葛葉の姿はなかった。
いつの間に出て行ったのだろう。
「先生」
職員室へ戻る途中、同じ学年の先生に声をかけられた。
「初日、お疲れ様です」
「ありがとうございます」
「葛葉、びっくりしました?」
「あぁ、遅刻してきた子ですよね。」
すると、その先生は苦笑した。
「気にしなくて大丈夫ですよ」
「...気にしなくて?」
「まぁ。どうせ治らないん」
さらりと言われた言葉に、思わず足が止まる。
「最初はみんな注意するんですよ。でも結局諦めます」
「諦める......」
「だって葛葉ですから」
その言葉を残して、先生は去っていった。
――だって葛葉ですから。
聞き覚えのある言葉だった
『あの子はそういう子だから』
『何を言っても無駄だから』
『仕方ないよ』
特別支援学校に居た頃、何度も耳にした言葉。
その言葉の発信源は様々だった。
クラスメイト、家族。
支援級の職員もが、同じ言葉を言う時があった。
もちろん、悪意があるわけではない。
ただ、諦めが積み重なっただけ。
けれど、本当にそうなのだろうか。
まだ私は、葛葉という生徒のことを何も知らない。
放課後。
職員室で出席簿を開く
葛葉の名前を探す。
四月。
五月。
六月。
遅刻。
遅刻。
遅刻。
ほぼ毎日、同じ文字が並んでいた。
ごくたまに、欠席が混ざる。
ここまで続いていれば、
周囲が慣れてしまうのも無理はない。
けれど
「......すごいな。」
思わず呟く。
どうして、ここまで遅刻するのだろう。
本当に
寝坊だけなのだろうか。
気になってしまった。
知らないまま、諦めたくなかった。
窓の外を見る。
グラウンドに、陸上部の声が響く。
朝見た、真っ赤な瞳。
面倒そうで。
興味がなさそうで。
けれど、どこか慣れているようにも見えた。
怒られることにも。
諦められることにも。
私は出席簿を棚にしまう。
明日もきっと、葛葉は遅刻してくる。
そんな予感がする。
でも、だからと言って。
最初からあきらめる理由にはならない。
少なくとも、私にとっては。