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🗝️🌙潮鳴りの宿
「ねえ、ここじゃない?民宿"潮鳴り"って。」
助手席の椎名がスマホを見ながら言った。ぼく――|斎藤《さいとう》|悠真《ゆうま》は、くたびれた木造の一軒家を見上げる。潮の香りが濃い。海水浴場からそう遠くない海沿いの道に、それは静かに立っていた。
「こんなに古いとこ、よく予約取ったな…。」
「安かったのよ、めちゃくちゃ。レビューはなぜかひとつもなかったけど。」
椎名は笑って言った。
大学のゼミ仲間五人での小旅行だった。夏休みに入ったばかりの八月初旬。海で遊んで、一泊して、あとは帰るだけ。何の変哲もない、はずだった。
民宿の玄関をくぐると、潮の香りに混じってほんのりとカビ臭がした。
「いらっしゃいませ。」
奥から女将が出てきた。痩せ細った年配の女性で、古びた浴衣にエプロン姿。笑顔なのに、どこか焦点が合っていない目が妙に印象的だった。
「…五名さまですね。…ゆっくり、おくつろぎください。」
ぞわ、とした。
歓迎されているはずなのに、背筋を冷たい手で撫でられたような感覚。けれど他の皆は気にも留めず、荷物を運び、部屋へと進んでいく。
民宿の部屋は二部屋に分かれていた。男子三人、女子二人。木の床がぎしぎしと鳴る。窓を開けると、波の音が絶え間なく聞こえる。
「風情あるなぁ。」
そう言ったのは安田。人一倍ビビりなのに、こういうときはやたらテンションが高い。
夕食は質素な和食だった。地元の魚を使ったという煮付けに、小鉢、味噌汁、白米。味は悪くない。だがどこか、すべてが"静かすぎる"のだ。
食事を終えた頃にはもう日が暮れていた。
――ここまでは、普通の旅行だった。
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「なあ、さっき風呂に行った時、誰かいた?」
夜十時過ぎ。部屋でくつろいでいたとき、安田が突然言い出した。
「いたよ。和泉と椎名、女子風呂に行ってただろ?」
「違う、男子風呂の話…暖簾くぐった時、奥から女の人の声がした。」
「え?」
僕らは顔を見合わせた。椎名と和泉はその場にいた。
「じゃあ、誰?」
安田の顔が青ざめていく。何かが、じわじわと侵食してくるような気味の悪さが広がっていった。
その夜。
僕はなかなか寝付けず、窓際に座って外を見ていた。
月明かりに照らされて、波が光る。
…そのとき。
「…う…ま…」
耳元で囁くような声がした。
「…ゆう…ま…」
背後から…。
振り向いた。誰もいない。部屋は暗く、安田と高橋が寝息を立てている。
ぞっとして立ち上がる。ドアを開けようとして…足が止まった。
障子のすぐ向こうに、影が立っていた。ぼんやりと、女のような影が。
「…う…ま…」
声が、重く響く。
「おい!起きろ!」
思わず声をあげて、安田と高橋を叩き起こす。電気をつけた瞬間、影は消えていた。
「…何だよ、びっくりさせんなよ…。」
高橋が眠そうに言う。
「女の…影がいた。」
そう告げると、安田の顔が再び青ざめる。
「…多分、あの時の声と同じだ。」
だが、その夜はそれ以上何も起こらなかった。
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翌朝、和泉がいなかった。
寝る前まで隣の部屋で話していたのに、布団は冷たく、どこにもいない。女将に尋ねると、「外に出るお客様もいらっしゃいますから。」とのこと。
けれど、僕たちは知っていた。
和泉は、そんなことをする性格じゃない。
椎名は震えていた。
「昨日の夜…夢でね、和泉が海に引きずられてたの。」
「夢って…。」
「違うの。現実と変わらないくらい、はっきり見えたの。波が手みたいになって、足を掴んでた。悲鳴も聞こえた。」
僕は鳥肌が止まらなかった。
その日の昼、海岸沿いで、和泉のものと思われるサンダルが見つかった。
警察に通報したが、女将はこう言った。
「…あの方も、呼ばれたんですね。あの方は、美しいから。」
なぜそんなことを言えるのか。
なぜ、表情も変えずにそれを言えるのか。
その夜、僕は夢を見た。
海の中で、誰かが僕を見上げている。
白い肌、黒い長髪、青く透けた唇。
――それは、もう人ではなかった。
そして、声がした。
「…次は…あなた…」
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翌朝。潮の香りは消えていた。代わりに、どこか生臭い匂いが漂っている。
警察は和泉の捜索を続けていたが、結局、何も見つからなかった。
帰り際、僕はふと、宿の帳場を見た。宿帳が置かれている。
開いてみる。
…ぼくらの名前の欄の下に、一つ名前があった。
五人しかいないはずの宿泊者のリストに、六つ目の名前。
――|水無月《みなづき》|澪《れい》
「この人、誰?」
僕が女将に尋ねると、彼女はふっと微笑んだ。
「この宿には、いつも"ひとり多い"んです。」
ぞっとした。背筋が氷で撫でられたように冷える。
最後に、ぼくはもう一度、振り返った。
民宿の二階の窓から、長い髪の女が、こちらを見下ろしていた。
ずっと…笑っていた。
「潮鳴りの宿」へようこそ。
この宿は、夏になると"呼ぶ"そうです。
海に還りたい、誰かの魂を。
あなたの隣にいる"その人"は、本当に友達ですか?
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最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
はじめてのホラー小説…なかなかうまく書けなかった気がします…。
ぜひアドバイスくださると嬉しいです!