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『バズと引き換えに差し出すもの』
スマートフォンが微振動するたび、網膜に張り付いた数字が跳ね上がる。
1,000、5,000、2万、5万――。
画面を下にスワイプして更新するたび、通知の赤いバッジが爆発するように増えていく。俗に言う「万バズ」の瞬間だった。
「本当に、いっちゃった……」
薄暗いワンルームの部屋で、成瀬(なるせ)あかりは乾いた声を漏らした。
液晶の放つブルーライトが、寝不足でクマの浮き出た彼女の顔を白々と照らしている。
あかりは、どこにでもいる「映えない」会社員だった。日中は理不尽な上司の小言に耐え、夜はコンビニの惣菜を食べるだけの生活。そんな日常を少しでも変えたくて始めたSNSだったが、日常の風景や当たり障りのない愚痴を呟いても、いいねはいつも一桁。世界から無視されているような感覚だけが募っていた。
しかし、数時間前に投稿した『ある動画』が、すべてを引っくり返した。
それは、あかりの住むアパートの隣人が、夜中に奇声を上げながら壁を激しく叩きつけてくる様子を収めた15秒の映像だった。
動画には『隣の部屋の人が毎晩これ。もう精神的に限界です』という文章を添えた。
恐怖、怒り、そしてほんの少しの「誰かに助けてほしい」という本音。
それが、面白半分のネットユーザーたちの琴線に触れた。
『これは警察呼ぶレベル』
『ヤバすぎ、主さん逃げて!』
『特定班、出番です』
リプライ欄はまたたく間に同情と好奇心で埋め尽くされ、インフルエンサーに拡散されたことで、数字はネズミ講式に膨れ上がっていった。
見知らぬ何万人もの人間が、自分の一言に注目している。自分を心配し、声をかけてくれている。
脳がチリチリと痺れるような全能感。これまでに味わったことのない、強烈な承認の快感が体中を駆け巡った。
――ドン!
突然、鼓膜を突き破るような衝撃音が響いた。
すぐ隣の壁からだ。あかりは跳び起き、スマホを握りしめたまま息を殺した。
ドン! ドン! ドン!
いつもより激しい。地響きのような地鳴りのような音が、薄い壁一枚を隔てて容赦なく押し寄せてくる。
恐怖が這い上がってくる。しかし、恐怖と同時に、あかりの頭をよぎったのは別の感情だった。
(……これ、いま録音したら、もっとバズるんじゃ……?)
一度味を占めた脳は、異常な思考回路を叩き出す。あかりは震える手でカメラアプリを起動し、壁に向けてレンズを構えた。
「いまも激しく叩かれています。怖くて手が震える」
そうテキストを打ち込み、動画を投稿する。
予想通り、タイムラインは再び狂熱した。
『続報キターーーー!』
『主さん大丈夫!?』
『これ、〇〇市のアパートじゃない? 背景の間取りで分かったわ』
「え……?」
リプライの文字を見て、あかりの指が止まった。
画面をスクロールすると、見知らぬアカウントたちが、あかりが過去に投稿した数少ない「窓の外の景色」や「駅前の写真」を繋ぎ合わせ、現在の位置情報を絞り込もうとしていた。
『特定した。ここ、〇〇町の〇〇コーポだろ』
『隣の奴の名前、誰か分からない?』
『ていうか、この投稿してる主の顔、過去のガラスの反射に映ってね?』
血の気が引いていくのが分かった。
ネットの怪物たちは、あかりの味方ではなかった。ただの「コンテンツ」として、この状況を消費し、楽しんでいるだけだった。
暴走するタイムラインを止めようと、あかりが「投稿を削除」のボタンに指を伸ばした、その時。
ピポ。
静まり返った部屋に、電子音が響いた。
あかりの部屋のドアの、インターホンが鳴る音だった。
時計の針は、午前二時を回っている。
宅配便が来るはずもない。友人が来るはずもない。
あかりは這うようにして玄関へ向かい、ドアの覗き穴(ドアスコープ)にそっと目を押し当てた。
そこに映っていたのは――。
手にスマートフォンを持ち、狂ったような笑顔で画面を見つめながら、こちらのドアをじっと見つめている、隣の部屋の男の姿だった。
男のスマホの画面には、あかりのさっきの投稿が映っている。
そして男は、画面から目を離さないまま、ゆっくりと口を開いた。
「見つけた」
男の呟きと同時に、あかりのスマホが手の中で「ピコン」と間抜けな音を立てて震えた。
『隣の男、いま主の部屋の前にいるっぽいぞ。これリアルタイムの事件じゃん!最高!』
画面の中で跳ね上がる、いいねの数。
あかりは自分が、世界の中心に立った代わりに、戻れない一線を越えてしまったことを理解した。
ドアの向こうで、男の手がゆっくりとドアノブにかけられ、ガチャリ、と音を立てた。
非情な金属音が響き、ドアノブがゆっくりと下へ傾いていく。
あかりは恐怖のあまり、その場にへたり込んだ。心臓が痛いほどに脈打ち、全身から冷や汗が噴き出す。
(終わった。殺される――)
しかし、ドアは開かなかった。当然だ、鍵はかかっている。
するとドアの向こうの男は、今度は激しくドアを叩き始めた。
ドンドンドンドンドンドンドン!
「おい! 開けろ! 出てこい成瀬あかり!」
男はあかりの名前を叫んでいた。なぜ名前を知っているのか。過去の投稿のどこかに、給与明細や郵便物が映り込んでいたのだろうか。
恐怖が極限に達したあかりは、震える手でスマートフォンの画面を操作した。警察に通報するのではない。もはや狂乱状態に陥った脳は、タイムラインに助けを求めることしか考えられなくなっていた。
『助けて。隣の人がドアの外にいます。名前を呼ばれています。本当に殺される』
悲鳴のような投稿。
直後、画面の数字がこれまでにない速度で爆発した。
10万、20万、50万――。
リプライ欄は狂喜乱舞するネットユーザーの声で埋め尽くされる。
『神展開キターーーー!!』
『おい誰か警察呼べよwww』
『これ今世紀最大の生放送だろ』
誰一人として、画面の向こうにいるあかりの命を心配などしていなかった。彼らにとってこれは、深夜に提供された極上の「エンターテインメント」でしかなかった。
ドンドンドンドンドン!
「開けろ! 逃げるな!」
男の怒号が響く。あかりは耳を塞ぎ、床に丸くなって泣き叫んだ。
――その時だった。
遠くから、ウーウーとけたたましいサイレンの音が近づいてきた。
一台ではない。何台ものパトカーの音が、このアパートに向かって走ってくる。
(警察……? 誰かが通報してくれたんだ!)
地獄に垂らされた蜘蛛の糸だった。
アパートの敷地内にパトカーが急停車する音が聞こえ、階段を激しく駆け上がってくる複数の足音が響く。
「警察だ! 動くな!」
廊下で鋭い声が響いた。
ドアの外で、男が激しく抵抗する声と、警察官たちが男を組み伏せる怒号が聞こえる。
「離せ! 俺は悪くない! 騙されるな!」
男の叫び声は、やがて階段の下へと遠ざかり、静寂が戻ってきた。
あかりは激しく安堵した。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、へなへなと玄関の床に座り込む。
スマホを見ると、タイムラインは『警察ガチで来たwww』『主さん助かった?』とお祭り騒ぎのままだ。
あかりは勝利を確信した。自分は生き延びた。そして、この事件によって、自分はネット上の誰もが知る「時の人」になったのだ。
コンコン。
ドアが優しくノックされた。
「警察です。成瀬あかりさん、もう大丈夫ですよ。中から鍵を開けてください」
警察官の落ち着いた声に、あかりは完全に安心の息を漏らした。
「はい……! 今開けます!」
あかりは立ち上がり、ドアのチェーンを外し、鍵を回して、勢いよくドアを開けた。
「ありがとうございました……!」
頭を下げながら顔を上げたあかりは、しかし、次の瞬間に凍りついた。
目の前にいたのは、二人の警察官。
だが、彼らの表情はあかりを保護するためのものではなかった。極めて冷徹で、哀れむような目で、あかりを見つめていた。
そして、一人の警察官がポケットから「一枚の紙」を取り出し、あかりに突きつけた。
「成瀬あかりさん。――偽計業務妨害、および、隣人に対する名誉毀損の容疑で逮捕状が出ています」
「……え?」
あかりの口から、間抜けた声が出た。
意味が分からなかった。なぜ被害者である自分が逮捕されるのか。
「あの、違います! 襲われそうになったのは私で、さっき連行された隣の人が犯人で……!」
「いいえ」
警察官は首を振った。
「さっき連行されたのは、あなたの隣の部屋の住人ではありません。彼は、あなたが数ヶ月前から依頼していた『便利屋の役者』さんです」
「……は?」
「役者さんは、あなたから『SNSの企画で、怖い隣人のフリをして壁を叩いてほしい。深夜に部屋の前まで来て名前を叫んでほしい』と依頼され、報酬を受け取って演技をしていたと供述しています。しかし、今日のあなたの投稿を見て、自分が本物の犯罪者に仕立て上げられようとしていることに恐怖を感じ、自ら警察に通報したんですよ」
警察官の言葉が、あかりの脳内に響く。
「そんなの嘘です! 私はそんな依頼してない! 本当に怖かったんです!」
あかりは叫んだ。しかし、警察官はあかりのスマートフォンを指差した。
「あなたのスマホの裏アカウント、および便利屋とのメール履歴はすべて押さえています。あなたは『バズる』ために、最初からすべてを自作自演していた。違いますか?」
あかりは息が止まった。
脳の奥底から、濁った記憶が急速に蘇ってくる。
そうだ。いいねが欲しかった。世界に注目されたかった。
だから私は、便利屋に金を払って『狂った隣人』を演じてもらった。
今日の深夜のやり取りも、すべて私が事前にプロットを書いて、彼に指示を出したものだった。
恐怖していたのは本当だった。しかしそれは、男に殺される恐怖ではない。
嘘がバレる恐怖。男が途中で演技をやめてしまう恐怖。
そして――自分が作り出した「バズ」という名の怪物に、自分自身が飲み込まれていく恐怖だった。
「さあ、来てください」
手錠がかけられる冷たい感触の中、あかりの手からスマートフォンが床に落ちた。
液晶画面はまだ点灯している。
そこには、あかりの逮捕をリアルタイムで察知したネット民たちの、新しいリプライが超高速で流れていた。
『悲報:主、自作自演で逮捕wwwwww』
『うわ、騙されたわ最悪』
『はい解散解散、次の面白いスレ行こうぜ』
あかりが人生と引き換えに差し出したものは、ネットの住人たちにとって、わずか数分で消費されて消える、ただの「暇つぶし」に過ぎなかった。
(終わり)