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第4話:小さな秘密の共有
昨日の放課後、雨の中に消えていった愛菜の背中が、真蓮の網膜に焼き付いて離れなかった。
『触らないで!』
拒絶の言葉よりも、その時に見せた、追い詰められた小動物のような怯えきった瞳が、真蓮の胸をナイフのように抉っていた。
(俺……あいつに、何て言えば良かったんだ)
翌日の昼休み。いつもなら友人と騒いでいるはずの真蓮は、一人で図書室の重い扉を押し開けた。
静寂と、古びた紙の匂い。
その一番奥、窓際の席に、小さく背を丸めて本を読んでいる少女を見つけた。
愛菜だ。
彼女は周囲の音を遮断するように、物語の世界に深く潜り込んでいた。
「……よお」
努めて明るく、けれど昨日の余韻を壊さないよう静かに声をかける。
愛菜は肩を跳ねさせ、顔を上げた。その瞳には、一瞬の恐怖と、その後に深い罪悪感が浮かぶ。
「……あ、秋葉、くん……。昨日は、ごめんなさい……」
蚊の鳴くような声。愛菜は縋るように抱えていた本をぎゅっと抱きしめた。
真蓮は、彼女の前の席に断りもなくドカッと腰を下ろす。
「謝んなよ。俺こそ、しつこくして悪かった。……お前、本、好きなのか?」
真蓮が覗き込んだ本の表紙には、穏やかな風景画が描かれていた。
愛菜は戸惑いながらも、小さく頷く。
「……ここだけは、静かだから。本の中にいれば……嫌な音、聞こえないから」
「嫌な音?」
「……怒鳴り声とか、叩く音とか……。活字を追っている時だけ、私は私でいられるの」
愛菜が初めて漏らした、心の避難場所。
真蓮は、彼女がなぜ「音」に敏感なのか、その輪郭を少しずつなぞっていく。
彼は自分の赤髪をがしがしと掻きむしると、柄にもなく真剣な顔で愛菜を見つめた。
「俺さ、勉強はてんでダメだけど。……お前が読んでるその世界を、壊すような真似はしねーよ」
「え……?」
「俺の周り、家族もうるせーし、俺自身もうるさい自覚はある。でもさ、愛菜が『静かにして』って言うなら、俺、世界で一番静かな男になってやるから」
真蓮の言葉に、愛菜は思わず目を丸くした。
太陽のような彼が、自分のために光を抑えると言ってくれている。
その不器用で、でもどこまでも真っ直ぐな優しさが、愛菜の凍りついた心の表面を、ぱちぱちと音を立てて溶かしていく。
「……ぷっ」
愛菜の口から、小さな、本当に小さな笑い声が漏れた。
「世界一静かな秋葉くん……想像できない」
「あ! 今、笑ったな!?」
真蓮が顔を赤くして身を乗り出す。愛菜は慌てて口を抑えたが、その瞳には昨日の絶望はなかった。
図書室の片隅。
誰にも教えない、二人だけの小さな秘密の時間。
それは、嵐の前の、束の間の「ひだまり」のような時間だった。
🔚