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ひだまりの向こう ③、④
③
秋が深まっていた。
窓の外では赤や黄色に色づいた葉が風に揺れている。
陽乃は今日も自分の部屋で過ごしていた。
学校へは行っていない。
外にも出ていない。
いつもと同じ一日。
だけど陽乃の心は少しだけ違っていた。
机の上には、昨日蒼斗が描いた下手な犬の絵が置かれている。
見るたびに少し笑ってしまう。
陽乃は絵を描こうと思い、スケッチブックを開いた。
鉛筆を持つ。
白い紙にゆっくり線を引いていく。
夢中になっていると時間が経つのを忘れられる。
気がつくとお昼になっていた。
その時。
リビングから電話の声が聞こえてきた。
お母さんだった。
今日は仕事が休みの日だった。
陽乃は最初は気にしていなかった。
けれど聞こえてきた言葉に耳が止まる。
「はい……まだ学校には……」
先生だ。
陽乃はすぐに分かった。
担任の先生と話している。
「すみません……」
お母さんの声が少し小さい。
「本人も頑張ろうとしているんです。でも……」
陽乃は胸が苦しくなった。
聞いてはいけない。
そう思うのに耳を塞げなかった。
「はい……ありがとうございます。」
電話が終わる。
静かになる。
陽乃は安心しようとした。
だけど次の瞬間だった。
小さな泣き声が聞こえた。
陽乃は思わず顔を上げる。
今のは。
お母さんだった。
お母さんが泣いている。
陽乃は信じられなかった。
お母さんはいつも笑っていた。
つらそうな顔を見せない。
だから泣くことなんてないと思っていた。
だけど違った。
陽乃は静かに部屋のドアへ近づいた。
少しだけ開ける。
リビングが見えた。
ソファに座るお母さん。
両手で顔を覆っていた。
肩が震えている。
陽乃は動けなくなった。
胸が締め付けられる。
全部、自分のせいだ。
学校へ行けないから。
心配ばかりかけているから。
陽乃はそう思ってしまった。
その時。
玄関が開いた。
蒼斗だった。
部活が早く終わったらしい。
「ただいまー。」
返事がない。
蒼斗は不思議そうにリビングへ向かった。
そして足を止める。
「お母さん?」
お母さんは慌てて顔を上げた。
「なんでもないよ。」
でも声が震えていた。
蒼斗は分かっていた。
嘘だと。
「先生から?」
お母さんは小さくうなずく。
しばらく沈黙が続いた。
やがてお母さんが言った。
「私ね……」
声が震える。
「陽乃のこと、どうしたらいいか分からなくなる時があるの。」
蒼斗は黙って聞いていた。
「もっと頑張ればよかったのかなとか。」
「私の育て方が悪かったのかなとか。」
「これからどうなるんだろうとか。」
お母さんの目から涙が落ちる。
陽乃はドアの隙間から見ていた。
胸が痛かった。
苦しかった。
お母さんを泣かせてしまった。
そう思った。
すると蒼斗が静かに言った。
「お母さん。」
「ん?」
「お母さんのせいじゃない。」
お母さんは顔を上げた。
「陽乃も悪くない。」
蒼斗はゆっくり続ける。
「陽乃だって苦しいんだと思う。」
「行きたくないんじゃなくて、行けないんだと思う。」
お母さんは黙って聞いていた。
「だから責めないで。」
「お母さんも。」
「陽乃も。」
その言葉に、お母さんはまた泣いた。
だけど今度は少しだけ優しい涙だった。
陽乃の目にも涙が浮かぶ。
蒼斗はいつもそうだった。
誰かを責めない。
怒らない。
味方でいてくれる。
だから陽乃は蒼斗が大好きだった。
夜になった。
夕飯の時間だった。
お母さんが部屋へご飯を持ってきてくれる。
今日はハンバーグだった。
陽乃の大好物。
お母さんは笑顔を作っていた。
でも昼間泣いていたことを陽乃は知っている。
「陽乃。」
お母さんが優しく言う。
「無理しなくていいからね。」
その言葉を聞いた瞬間。
陽乃の目から涙がこぼれた。
ぽろり。
お母さんは驚く。
「陽乃?」
陽乃はうつむいた。
言葉が出ない。
苦しい。
悲しい。
申し訳ない。
色々な気持ちが混ざっている。
やっと出た言葉は、
「ごめんなさい……」
それだけだった。
お母さんは目を見開いた。
そしてすぐに首を振る。
「違うよ。」
優しい声だった。
「謝らなくていい。」
「陽乃は悪くない。」
お母さんは陽乃の頭をそっとなでた。
温かかった。
その温かさに、陽乃はまた泣いてしまう。
お母さんも泣いていた。
その夜。
布団に入った陽乃は天井を見つめていた。
お母さんも苦しんでいる。
蒼斗も心配している。
自分だけがつらいわけじゃない。
そう気づいてしまった。
だけど同時に思った。
いつか。
いつか少しでもいいから。
お母さんを笑顔にしたい。
蒼斗を安心させたい。
今はまだ無理でも。
いつか。
その小さな願いが、陽乃の心に初めて生まれた。
長い長いトンネルの中で。
まだ見えない出口の方へ向かう、小さな小さな願いだった。
---
④
翌朝。
空はよく晴れていた。
昨日まで降っていた雨がうそのようだった。
窓から差し込む光が部屋を明るくしている。
陽乃はベッドの上に座り、ぼんやりと外を見ていた。
昨日のお母さんの涙を思い出していた。
お母さんは笑っていた。
だけど本当は苦しんでいた。
蒼斗も心配していた。
陽乃は枕を抱きしめる。
胸の奥が重かった。
「少しだけでも変わりたいな……」
小さな声でつぶやく。
もちろん学校へ行く勇気なんてまだない。
外へ出るのも怖い。
それでも昨日までとは少し違う気持ちがあった。
コンコン。
ドアがノックされた。
「陽乃。」
蒼斗だった。
「今日さ。」
少し間を置く。
「アイス買いに行こうぜ。」
陽乃は目をぱちぱちさせた。
アイス。
好きだった。
特にイチゴ味が好きだった。
でもすぐに不安になる。
コンビニは人がいる。
外は知らない人が歩いている。
考えただけで緊張した。
返事はできない。
蒼斗は続けた。
「別にコンビニまで行かなくてもいい。」
陽乃は首をかしげた。
すると蒼斗が言う。
「玄関まででいい。」
沈黙。
「玄関まで行けたら百点。」
陽乃は驚いた。
外へ行けとは言わない。
学校へ行けとも言わない。
ただ玄関まで。
本当にそれだけだった。
「考えといて。」
蒼斗はそう言って学校へ向かった。
部屋に静けさが戻る。
陽乃は何度もその言葉を思い返した。
玄関まで。
たったそれだけ。
だけど今の陽乃には、とても遠く感じた。
昼過ぎ。
陽乃は部屋のドアを見つめていた。
心臓が少し速くなる。
足が震える。
怖い。
理由は分からない。
でも怖い。
それでも立ち上がった。
一歩。
部屋を出る。
廊下に出るだけなのに緊張した。
誰もいない。
静かな家だった。
陽乃はゆっくり歩き始める。
一歩。
二歩。
三歩。
四歩。
五歩。
だんだん心臓がうるさくなる。
六歩。
七歩。
八歩。
九歩。
十歩。
気づくと玄関の前だった。
陽乃は立ち止まる。
そこには自分の靴が並んでいた。
一年以上履いていない靴。
少し小さくなっている気がした。
玄関のドアの向こうには外の世界がある。
学校。
公園。
コンビニ。
たくさんの人。
たくさんの音。
陽乃はドアノブを見つめる。
触ろうとする。
だけど手が届かない。
怖かった。
怖くてたまらなかった。
結局、そのまま部屋へ戻ってしまう。
ベッドへ飛び込む。
息が苦しい。
心臓がどきどきしている。
失敗した。
そう思った。
でも夕方。
蒼斗が帰ってきた。
「ただいまー!」
いつもの元気な声。
しばらくしてノック。
「陽乃。」
部屋の前に来た。
陽乃は小さな声で言った。
「……玄関まで行った。」
ドアの向こうが静かになる。
しばらくして。
「マジで?」
驚いた声が聞こえた。
陽乃は少しだけうなずく。
「でも外は無理だった。」
すると蒼斗は言った。
「すげえじゃん。」
陽乃は目を丸くする。
無理だったのに。
失敗したのに。
蒼斗は続けた。
「一年ぶりだろ?」
陽乃は気づいた。
確かにそうだった。
玄関まで行ったのは本当に久しぶりだった。
「だから百点。」
蒼斗が笑う。
「むしろ百二十点。」
陽乃は思わず笑ってしまった。
小さな笑顔だった。
だけど本物だった。
夜。
仕事から帰ったお母さんに蒼斗が話した。
「陽乃、今日玄関まで行ったんだ。」
「えっ?」
お母さんは驚いた。
「本当に?」
陽乃は少し恥ずかしくなりながらうなずく。
お母さんの目が少し潤んだ。
でも泣かなかった。
代わりに優しく笑った。
「頑張ったね。」
その言葉を聞いた瞬間。
陽乃の胸が温かくなった。
学校へ行けるようになったわけじゃない。
外へ出られたわけでもない。
たった十歩。
本当にたった十歩だった。
だけど陽乃にとっては大きな十歩だった。
長いトンネルの中で踏み出した最初の一歩。
誰かから見れば小さな変化かもしれない。
それでも陽乃には大きな勇気が必要だった。
布団の中で目を閉じる。
今日のことを思い出す。
玄関。
靴。
ドア。
そして蒼斗の言葉。
「百二十点。」
陽乃は少しだけ笑った。
明日も何かできるだろうか。
分からない。
でも今日より少しだけ前を向ける気がした。
そう思いながら、ゆっくり眠りについた。
長い
疲れたー