公開中
【曲パロ】SLIP
※この小説には██████のイヤホン型過去擬似体験装置「SLIP(スリップ)」のプロモーションが含まれています。
※なお、この小説・以上の装置はフィクションであり、いよわ様の「SLIP」「the making of "SLIP"」にインスパイアされて制作した二次創作です。
夏の風が指を撫でる。打ち寄せる波の飛沫が、私の足を湿らす。青空の隙間から雲が流れて、日差しを遮る。じりじりとした暑さはとどまることなく、情緒なんてどこかにいってしまった今年の夏。
一昔前の音楽プレイヤーみたいなそれを取り出して、耳にかける。だんだんと世界から音が遠くなって、私は目を閉じる。
……なんて、私らしくないような、ドラマかどこかの小説みたいなことを考えながら。
---
ぱっと目を開けると、先ほどよりも彩度が上がった光景がそこにあった。私が口を開く前に、目の前の彼が話し始める。ベタな赤い薔薇の花束と、紺の小箱を携えて。
「あかね」
「……何」
「僕と、結婚してください」
なんて、向こうもドラマみたいなことを言った。ちぎれた記憶が一瞬で蘇り、懐かしさで胸が覆い尽くされて、私はゆっくりと目を伏せる。始まりのちいさなダンボール箱を想起する。
テレビ広告でよく見ていた、イヤホンのような何か。
「過去擬似体験装置」というものらしい。
██████。どうやら新進気鋭の研究所らしい。モデル並みに美しい黒髪の女性は広告にて「過去に戻ってやり直したい、『うわがき』したいと思ったこと、ありませんか?」と語っていた。キャッチコピーに誘われて、つい衝動的に買ってしまったのだ。
今の私がちょうど欲していたものだった。取扱説明書によると、充電は5分でなくなってしまうらしい。だから、その先を夢見ることはできないけれど、5分間もあれば十分だろう。
「あかね?」
「うん」
怪訝な顔をする青年から私は目を逸らし、きらめく水面越しに、自分の鮮やかなネイルを眺めた。情緒あふれる水色によく映える、真っ赤なネイルだ。若い私にはよく似合っている、と自画自賛しつつ、この先のふたりをどうするのかを頭に思い描く。ここでどう答えようと、ふたりの暮らしはあの朝、枯れてしまうことを知っているのだが。
「絶対、幸せにするから」
そう、堂々と彼は告げた。
低く見積もっても大予言。私からすればひどく滑稽なのだが、目の前の彼はいたって真面目な面持ちである。だから、きっとこれからの行うことは許されることなどないだろう。
しかし、私はこの我儘を押し通す。
差し出された花束に手を翳す。触れる。握る。ゆっくりと深呼吸し、思い切りそのかぐわしい香りを吸い込んで。
差し出された花をフルスイングする。ぼうっとしていた彼の横っ面に、小気味いい音を立ててそれは激突する。綺麗に整えられた花弁が、リボンが、爆ぜるように空を切ったのを私は見届けた。
まるで本当に生きているかのように、目の前の人間は荒れる息を落ち着かせている。
「病める時も、健やかなる時も」
殴り飛ばされた夢まぼろしを見下ろしながら、呟いた。
「永遠の愛で添い遂げることを、誓いますか?」
驚いたように、目の前の彼が目を見開いて、口も開こうとする。
「……なーんて、馬鹿みたい」
実際にこっちは、ずっと前に交わした口約束に馬鹿を見たのだ。この想いの仇を討つ。それくらいはさせて欲しかった。
白く歪んでいく視界に、未だ呆けている青年を映さないよう私は背を向けた。何か話しかけられているようだが、ノイズが邪魔をしてうまく聞き取れない。どうせただの夢まぼろしだ、聞かなくても問題はない。
「じゃあね。さよなら」
今更会いに行ったって、向こうの中身は変わっていない。私が惚れた時のままで、少し躊躇してしまいそうだったが、無事やり遂げた。
「こちらも生憎、変わんなかったからね」
タイムスリップが終わる。
---
足元は焼け付くような砂浜の上で、じめじめとした熱気が私を起こす。人間を花束越しに殴り飛ばした感覚が、からっとした情緒ある熱気の余韻がまだ残っている。
私を突き動かした憑き物ではない何かを、置いてきてしまった気がして、珍しく誰もいない小さなビーチから動けずにいた。次第に取扱説明書のどこかのページ、充電の仕方が思い返された。
---
花束を手に取り、目の前の人間を叩く。
すっかり慣れたルーチンワーク、慣れた吹っ飛ばされる横顔。訳もわからぬまま殴り飛ばされるあなたの目は今日もこぼれ落ちそうなほどに見開かれている。
巻き戻して、やり直して、全部なかったことにして、今日もまぼろしはサンドバッグみたいな扱いを受ける。八つ当たりを食らう袖は新品のはずなのに、ぼろぼろになったまぼろしがさらに重なり、私は思わず目を逸らす。自分でやったくせに、痛ましいとは。
最低だ。
一言、頭に浮かんだ途端、脳内でそれが増殖して埋め尽くされる。次に会ったあなたが愛想を尽かしていたら。そもそもプロポーズなんてイベントが起きなかったら。
ここは私の夢の世界らしいから、私の深層意識がこんなことを思っていれば、望む夢だって見られないかもしれない。
もうあなたに会えないかもしれない。
「待って」
SLIPは待ってくれない。既にこの時点で辺りが白んできており、まるで特撮の3分タイマーかのように終わりが近いことを知らせる。軽やかな暑さが重く濁っていく。
今なら、素直に。
「……暑いのは、嫌いよ」
なれなかった。
肩で息をして、じっとりと汗ばむ手で花束を握りしめて、宛先もなく吐き捨てる。文字通りの捨て台詞、白く歪んでいく中で素直はどこか遠くへ旅していく。ずっと前から私はこうだ。
簡単なはずのごめんねが、言えなかった。
---
「正史」の私は指輪を受け取った。「彼女」から名前を変えた関係は、ずっとそのまま幸せに続いていくものだと思っていた。
続いた日々は、想像とゆっくりずれていった。恋人時代は気にならなかった些細なことが、全て牙を剥いたような感覚だった。細かいことでいちいち怒ってしまうこちらと、優しさゆえにすぐに訂正する向こう。それが、私はどうにもむず痒かった。こんな私のことが嫌なら嫌と言ってくれ、と。
私はケンカがしたかったのだ。夫婦ならよくある諍い。お互いに腹を割って話し合って納得すればそれで良かったのに、あの人はすぐになんでも受け入れてしまう。
そうして、私は打ち明けた。ぶちまけたという方が正確かもしれない。とにかく、爆発した私をいつものように彼が宥めたその日から、物理的に喧嘩はできなくなってしまったのだ。
だから一発殴ってやりたいと思っていたのだ。どうして置いていったんだ、嫌いなわけではなかったのに、と。
---
夏の風が、指を撫でる。
青空の隙間から、ゆっくりと雲が流れる。
再上映が繰り返された夏の海は、今日も澄んだ青色だ。こうしてまた、1日に1回きりのスリップがやってくる。
「あかね」
ロマンチックだった口約束の先を聞こうともせず、私は花束を奪い取った。こちらには5分しかないのだ。悠長にしている暇などない。
私はそれを振りかぶって、叩きつけた。はず、だった。
花束は、頭に触れただけだった。もう一度やり直そうとして、またそっと触れた。
これ以上は無理なのだ。悟り、彼に背を向ける。ぽろりと花束を落としてしまっても、再び持つ気力はない。背後で花束のラッピングが擦れる音がする。
きっと彼が拾い上げたのだろう。私がそんなことをぼうっと思った途端、回り込まれた。
そして、先ほどの私のように振り上げる。
「わっ」
痛みを覚悟して目を瞑って、思わず声を上げる。柔らかな感触で目を開ければ、目の前の表情は存外穏やかだった。
「せっかく綺麗なのに、もったいないよ」
ああ、ずっとあなたはそういう人だった。
だから私は、あなたに恋をしたのだった。
「お人よしすぎて、見ててイライラするの。そんなのだから……」
この先を言えば、せり上がってきたものが溢れてしまう。シワを寄せようとしたが、私もつられて優しい顔になってしまった。
「ねえ、私たちケンカできる?」
ぽろりとこぼれた言葉を誤魔化すことはしない。真摯に答えてくれると信じているからだ。
「できるし、するよ。きっと」
「優しすぎるのに?」
「譲れないことくらいあるよ」
「じゃあ、少しずつ取り戻せる?」
「何を?」
「それは、いろいろよ」
「大丈夫だよ。あかねは強いからなあ」
「暴力女って言いたいわけ?」
会話しているうちに笑みが浮かぶ。今なら、聞ける気がする。
「私、我儘よね。キライになる?」
ドラマみたいに、カッコつけたプロポーズが続けられる。今更会いにいったのに、こんなにも幸せでいいのだろうか。
「受け取ってほしい。これが僕なりの答えだから」
スリップしてからは随分と見慣れた景色だけれど、今は見たことのない景色でもある。
「これからもよろしく」
生憎、こちらもたいして変わらなかった。また恋をする日は、かなり遠そうだ。
「ありがとう」
優しいまぼろしを、ありがとう。きっともう憂さ晴らしの夢を見ることはない。話すこともケンカすることもできないけれど、もう寂しくはない。
もとに戻っていく中でも、真紅のネイルに傷ひとつないリングはよく映えていた。
---