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さ
アビス・マーティン
トランシー邸
夜の帳が下りる中、ガラス天井の向こうには満月が怪しく輝いている。
私の目の前には、仕立ての良い薄紫の衣装を奔放に着崩した、金髪の少年が座っていた。
「ねぇ、アイリス! 君、本当に面白いね! 男か女か分からないなんて、まるで僕のコレクションの最高の一品みたいだ!」
アロイスは下品にケラケラと笑いながら、目の前のテーブルに飾られた大きな蜘蛛の巣を指先で突ついている。
普通の貴族令嬢なら泣き出すか、伯爵なら激怒するような無礼な物言い。
だけど。
「ふふ、ありがとう、アロイス。貴方って本当に下品で、最高に可愛いわ。」
私は最高級の紅茶に口をつけながら、本気でそう返してあげた。
この子は変だ。
突然怒り出したかと思えば、次の瞬間には一途な子供のように縋り付いてくる。
その予測不能な危うさが、退屈な社交界の有象無象とは違って、私を少しも飽きさせない。
「可愛い? 僕を可愛いって言ったの!? あはは! 面白いなぁ、やっぱり君は変な子だ!」
アロイスは椅子から立ち上がると、猫のような身軽さで私の椅子のすぐ横まで距離を詰めてきた。
「シエル・ファントムハイヴは君を見て眉をひそめたんだろ? あいつは本当につまらない堅物さ。ねぇ、あいつのことなんか忘れて、僕の『お友達』になってよ。ねぇ?」
甘えるような、だけど瞳の奥には底知れない歪みを隠した、アロイスの青い目。
自分と同じ、どこか壊れた魂の匂いがする。だけど、シエルのように私の孤独を鋭く暴く「理解者」には決してなれない。お互いに自分の穴を抱えたまま、ただ楽しく傷を舐め合うだけの存在。
「ええ、いいわよ。私たちはもう『お友達』じゃない、アロイス。」
「やったぁ! じゃあ、お友達の印に——」
アロイスが嬉々として私の首元に手を伸ばし、街着の襟元をグイと引き下げようとした、その瞬間。
シュル……。
冷たい、だけど容赦のない絶対的な殺気が、私たちの間に割り込んだ。
「——そこまでに、していただきましょうか。トランシー伯爵。」
いつの間にか私の背後に音もなく立っていたメイベルが、アロイスの手首を、折らんばかりの力で美しく、静かに掴み取っていた。
その紅いカーネーションの瞳は、一途な乙女のそれではなく、今すぐこの蜘蛛の巣ごと相手を噛み千切らんとする悪魔の輝きを放っている。
「痛っ……! なんだよ、このメイド!」
「リリー。おいたが過ぎます。……私以外の者に、その『首筋』を弄ばせるなど。」
メイベルの指先が、アロイスの視線から遮るように、私の純白の髪を優しく、だけど独占欲を隠さずに梳き直す。
髪の隙間から、ほんの一瞬だけ、妖しく光る首筋の裏の「印」がアロイスの目に映った。
「へぇ……君も、僕と同じなんだね。」
アロイスは痛む手首を押さえながら、その瞬間だけ、ゾッとするほど冷徹な、そして歓喜に満ちた目で私の首の裏を睨みつけた。
(……いやいやいや! トランシー家の蜘蛛の執事が後ろで眼鏡光らせながら金色のお盆を武器みたいに構えてるし、うちの侍女頭はいつでも首を跳ねる構えだし、空間の圧力が狂ってて俺の胃に穴が空きそうなんだけど!? なんでお嬢様のお友達作りは毎回デスマッチになるわけ!? by.案の定、お土産の荷物持ち兼護衛(?)で奥まで連れてこられたいつもの操縦士)