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第六話「厳しい道」
夕暮れ空が、茜色というよりも橙色の輝きを引っ提げて、こちらをじっと見つめている。そよ風が吹いて、彼が持っていた参考書のページが、はらりと浮いていた。
「お願いします。私、どうしてもなんです」
唐突にするべきではないお願いなのは、分かっていた。それほど親密度も高くない、ただの隣人に勉強を教えてくれと頼むなんて、とんでもない行為だという事も知っている。そして、そんなお願いを引き受けてくれる人間は少ないという事も、知っていた。しかし、それらを承知の上で、私は口を開いている。
どこか、予感めいた物があった。ここで一歩踏み出さないといけないと、神様からお告げを受けているような、そんな感覚があった。ここで行けと、何者かから命令を受けているようだった。本能が、そういう司令を受け取った。そうして気付けば、言葉はこぼれていた。
「実は私、不登校なんです。いじめで学校に行けなくて。それで、家にお金が無くてフリースクールとかにも行けないから、今までずっと、ちゃんと勉強できていなかったんです。今、二年生なんですけど、一年生から不登校で、高一どころか、中三の範囲すらできなくて……。でも、そんな自分からもう、変わりたいんです。そのためには、私に勉強を教えてくれる人が必要なんです。親にも先生にも頼れなくて、北さんくらいしか居ないんです。お願いします!」
一気に、それはもう一気に言葉が溢れた。本当はここまで長く話す気じゃ無かったのだが、途中からなんだか、無意識的に漏れてしまったようだ。
そこまで進んで、自分が一方的にお願いや話をしてしまっているなという事に気付いた。信介さんは困惑していないだろうか。それどころか、怒っていないだろうか。恐る恐る、反応に伺いを立てるように、彼の顔を見た。
そこで信介さんは、感心したような表情をしていた。ハッとしているような、見開いた目で、私を見つめていた。
「あ、あの、北さん?」
予想外の反応だったので、逆にこちらが困惑してしまった。なぜこの人は、感心の顔をしているのだろうか。疑問に思った。
「ああ、ごめんなさい。#苗字#さんがそない感じなの、なんかびっくりで」
そない感じ、というのは一体、どんな感じなのだろうか。
「ちゅうか、二年生やったんですね。ずっと一年の子やと思っとりましたよ」
「え。違います、高校二年生ですよ!」
実際よりも年下に見られていた事に、若干むっとしてしまった。私はれっきとした、高校に通っていないだけの、高校二年生だ。
「いや、すみませんね。いっつも子供みたいにわちゃわちゃしとって、てっきり二個くらいは下かと思っとって」
子供みたいにわちゃちゃ、も分からない言葉の一つだった。
「もう、違いますよ」
「すみません。でも、そんな#苗字#さんが、ここまで覚悟決めてるなんて、知りませんでした」
さっきまで緩く微笑んでいた信介さんの顔が、真剣に引き締まる。雰囲気が、この刹那で一変したようだった。
「本当に、#苗字#さんが変わりたいなら、俺は喜んで協力しますよ。厳しい道になるとは思いますけど、それでもって言うなら」
正直、すんなりと協力してくれるとは、想っていなかった。一回は拒否されて、そこからが本番だと思っていた。
しかし、現実は違った。私の目の前に立っているこの人は、たった一回のお願いの言葉と、こちらの事情の話だけで、協力しようと言ってくれているのだ。頼んだ側が思うのもあれな事だが、ここまでスムーズに行くなんて、思っていなかった。まさに拍子抜けだ。
「良いんですか?」
「はい。部活があるんで、部活終わりか休日くらいにしか、直接教えられる時間は無いですけど」
「それは構わないんですけど、でも、こんなただの隣人の家庭教師なんて、迷惑じゃないですか?」
「迷惑なんかじゃないですよ。#苗字#さんが本当に変わりたいなら、なんぼでも協力します」
そう言う彼が、眩しく見えた。それと同時に、この世界にはまだこんなに優しい人が居るんだと、そう思えた。
昔は、周りに優しい人がいっぱい居た。実の両親、学校の先生、クラスメイト、塾や習い事の仲間。皆が穏やかで、その輪の中に生きている私も、もちろん幸せだった。
でも、両親がこの世を去ってから、私の世界は荒み始めた。優しい人は、誰一人として居なくなってしまった。義母はネグレクト、学校ではいじめ。先生もいじめを黙認する始末だ。優しい世界が、沈んで消えていった。
でも、今ここには、久しぶりの優しさを与えてくれる人が居る。温かくて、安心できる優しさ。もうずっと感じる事がなかった、忘れかけていた優しさ。それを、この人はきっと持っているのだろう。
厳しい道でも、全然構わないと思えた。信介さんの隣で変われるのなら、苦労なんて安いものだ。というか、元々これが茨の道だなんて事、痛いくらいに知っている。
それでも、このままじゃダメだと思った。だから私は、変わりに行くのだ。
「どうしますか」
答えは、分かりきっていた。
「……良かったら、これからどうか、よろしくお願いします!」
五話まで続いたので、タグを書くのをやめました。タグ占拠は良くないですからね。