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澱
瓶が緩むような音が耳裏に木霊した。ようやく、順が回ってきたのだとそんな考えがふと脳にこびりついた。
胎児が母から出るようにずるりと瓶から流れ出て、真っ黒な水が頬を伝う。それが、ひどく虚しくて沈殿物が溜まりに溜まって溢れ出しそうだった。
子鹿のように立った目の前には影が差さる“ノーウェア”に建つ“無名館”と、止まり方も忘れた膨れ続ける嬉しさだけが燻っていた。
白肌の掌に握られたぐしゃぐしゃになった名札には“|五木《いつき》|藍《あい》”と文字が描かれている。
五木藍。五木、藍。藍。
それが彼女で、君で、私。そうに違いない。そう生まれたのだ。
細く華奢な腕で黒髪を払って、無名館の扉に手をかける。瞬間、勢いよくそれが開かれて宇宙のような者が瞳に入った。
六つの黄色い瞳の中に映る私はそばかすの目立つ平凡な顔つきをして黒髪と青い瞳だけが浮いたような二十代半ば程の女性だった。
目の前の六つ目は私の映る瞳を歪ませて、「ようこそ、没者」とだけ微笑んだ。
この人に『ただいま、はじめまして』……そう返すべきなのか、私には未だに分からなかった。ただ、なんとなく今はこの人が怖くて怖くて堪らなかった。
促されるがままに、あるいは逃避する道を探すように言われた通りにして、オロムと名乗った人物の後をついていく。薄暗い廊下がだんだんと光が見えて安心が這い寄ってくる。
嗚呼、なるほど。ここなら確かに安全で、それでいて寂しくもない。
己が罪を零してもこの人なら受け皿になってくれるだろう。ようやくできた居場所の背中に向かって、私はゆっくりと前提されていた物語を零した。
「…私、いじめをしてたんです。学生時代に初めは主犯の子から万引きとか、そういうのをして来いって話されて、そういうのが日常でした。
…でも、それも誰かがまた私になると、私はさせる側になりました。
それでも、君は…許して、くれますか?」
居場所の背中は何も言わなかった。何も言わないのがひどく心地良かった。
どれもこれも『初めて』が枕言葉になる景色を見つつ、窓を見た。
心を反映したような群青の空から深淵が顔を出しつつあった。